ヴェネツィア

遠い日の友、記者証

 

期限の切れた記者証がある。イタリアでフリーのライターとして働いていたころに使っていた、イタリア国の記者証だ。もう使い道もないが、だいじな思い出として、引き出しの奥にしまってある。

先日、探しものをしていて、久々に目にふれた。銀行のカードぐらいの大きさの、茶色いハードカバーのついた、二つ折りの証明書だ。表紙には「国立記者協会 証明書」と金色の文字が入っていて、内側には外国人プレスとして自分の名前が記され、証明写真が貼ってある。写真のなかで、ショートカットの若い女がほほえんでいる。

 

この記者証を手に入れるまで、それなりの時間がかかった。

ヴェネツィアに嫁に行ったはいいが、仕事がない。レンタルビデオ屋など、日本なら学生がアルバイトでやるような仕事でさえ、うばい合いだ。

そんな状況で、選り好みしている場合じゃないのに、舅が紹介してくれた大手旅行代理店の仕事を、向かなくて、すぐやめてしまった。ヴェネツィアでちゃんとした会社の正社員になれるというのは、そうそうない、幸運なことだったらしいのに…。

そんな好機会を蹴った自分には、もう退路がなかった。自分で仕事を作るしかない。

しばらく考えて、ライターの仕事ならできるかな?と、ふと思いついた。日本でコピーライターをしていたから、書くことになじみはあったのだ。

 

とはいえ、どこから始めていいかわからない。出版業界に知り合いもいない。

とりあえず、あちこちの雑誌の編集部に売り込みの手紙を書くことから始めた。こんな原始的な方法に効き目があるのか、半信半疑だったが、住んでいるヴェネツィアという町の魅力のおかげで、ぽつぽつと仕事が入るようになった。

最初の記事は航空会社の機内誌だった。初めて自分の名前の入った記事が出たときはうれしかった。広告の世界では、コピーライターの名前が出ることはない。ただ、ギャラは十分の一だった。クライアントがいる世界と、そうじゃない世界。似て非なる世界なのだ。

見よう見まねでやっていたが、コツがつかめると楽しくなってきた。旅や文化、トレンドや社会事情、イタリア生活に関するコラムなどを書いた。媒体も、機内誌、PR誌を中心に、ファッション雑誌や総合ニュース雑誌など、徐々に増えていった。ラジオリポーターも二、三度、やらせてもらった。

 

常にネタを探していた。おもしろいネタでないと、記事を採用してもらえない。

なんとなく日々を送っていたのが、身のまわりのことにアンテナを立てるようになった。これ、ネタにならないかな、このできごとはどんな意味を持つのかな、など、以前より注意してものごとを見る。それはプライベートにも変化をもたらし、嫌なことがあっても、ちょっと距離を置いて見られるようになった。

 

そのうち、仕事によっては、記者証がないと取材させてもらえないことを知った。大型美術展の報道関係者内覧会などだ。〇〇新聞、XXテレビといった所属がないなら、フリーなら、記者証を見せて、と言われた。まあ、よく考えると当然だ。我流でやってきたので、そんなことも知らなかった。

記者証がないと入れてあげない、といわれると、俄然それが欲しくなった。それを手に入れることが新たな目標となった。毎月、自分の記事を掲載してもらえるようがんばり、2年後、審査に通った。

 

あれは夏だった。イタリア記者協会のロゴが入った封筒が届き、ドキドキしながら開けると、真新しい記者証が入っていた。

飛び上がってよろこんでいると、居合わせた夫と舅が、なにごとかと、目をまるくしている。記者証を見せると、ふたりして、どれどれ、と見入った。そして、感心した様子で顔を見合わせた。

それまで、彼らは、わたしが長い時間机にしがみつき、なにをやっているのかふしぎに思っていたと思う。いや、正確にいうと、細々と記事など書いているのは知っていたが、趣味程度のことととらえていただろう。それが、イタリア国が発行した記者証を見て、少し見方が変わったようだ。

夫は「うちの小さな記者さん」とわたしをからかった。舅は「意思さえあればなんでもできるもんだね。おめでとう」とほほえんだ。

 

記者証を手に入れて、わたしはようやくイタリアで、自分にも、まわりにも、自分が何者か示すことができた。それは、わたしにとっては大きなことだった。それまで、○○さんちのお嫁さん、としか認識されず、やっぱりちょっとさびしかったのだ。

 

7年間、それを使って仕事をした。書く仕事もあれば、取材の通訳、コーディネーションといった仕事もあった。専業でやっている人から見れば、バイトに毛が生えた程度のことにしか見えないかもしれないが、移り住んだ国で、自分の仕事、といえる仕事が持てるようになったのは、自分にとってはこのうえなくうれしいことだった。

ふたりのカメラマンとよくいっしょに仕事をした。アンドレアとマーク。

アンドレアは通信社の仕事が主なカメラマンで、映画祭の仕事はいつも彼といっしょだった。マークとは旅や食、文化・アート系の取材をやった。彼は半分イギリス人で、貴族の血を引いていた。そんなことから、ヴェネツィアの上流社会をよく知っていて、わたしが知らなかった世界をかいま見せてくれた。

 

ヴェネツィア映画祭では、日本から来訪しているジャーナリストの通訳やコーディネーションの仕事をした。

映画祭が開かれるのは、毎年8月末から9月初旬にかけて。会場となるリド島に、ハリウッドのスターをはじめ、俳優、映画監督、プロデューサー、配給会社、パブリシストといった関係者が大勢おとずれる。

スター俳優や大物監督に取材するジャーナリストたちは、彼らがリラックスして話せるよう、細かく神経を配りながら質問している。相手が噛み殺したあくび、なんてものも見逃さない。なるほど、プロはこうして仕事するんだ…。わたしは通訳をしながら、先輩たちの一挙手一投足に目をこらした。

そんな映画祭の仕事は、神経を使うし、大変だが、スターたちの素顔がちょこっとのぞける、という役得があった。

北野武は初めてのヴェネツィア映画祭で、「HANA-BI」で、のっけから金獅子賞をかっさらった。才能はもちろんだが、運の強さもすごい。その夜はリド島の中華料理屋さんで、日本人関係者らが監督をかこみ、お祝いとなった。末席から観察しただけだが、毒舌でも、あふれ出る愛嬌。なるほど、人気の理由がよくわかった気がした。

ある年はカトリーヌ・ドヌーブが映画祭の審査委員長だった。ドヌーブが記者会見場にあらわれると、会場が一気にしーんとなった。あたりを払う威厳だ。ある記者が賞の選考に関し、不公平ではないか、と質問すると、ドヌーブはまばたきもせず、「人生って不公平なものでしょう?」と答えた。良し悪しは別として、ドヌーブが言うと説得力があった。

トム・クルーズと二コール・キッドマンは、夫婦いっしょの主演作、「アイズ・ワイドショット」のノミネートでヴェネツィアに来ていた。ハリウッドの大物花形カップルの来訪で、ヴェネツィア中、大さわぎだ。このあと、ふたりは別れてしまうのだが、当時はまだ仲むつまじい雰囲気だった。

ジョン・マルコビッチは、一見、気むずしそうだが、意外に気さくで、取材の通訳が終わると、親指を立て、唇の端でほほえんでくれた。

そして、学生のころから大ファンだった、ベルナルド・ベルトルッチ監督。通訳の仕事が舞い込んだときは、幸運が信じられず、頬をつねったぐらいだ。ひとことも聞きもらすまいと緊張してのぞんだが、さすが国際的巨匠、イタリア語ではなく、流暢な英語で話しはじめたので、こちらの出番はそんなになかった。それでも全身を耳にして話を聞き、ノートを取った。

ベルトルッチの、その大きい、あたたかい存在感と、話しているときの、そこだけはイタリア人らしい、あざやかな手ぶりをよくおぼえている。そして、話がとてもわかりやすかった。ワールドワイドに仕事をするから、だれにでもわかるように話す術に長けているのかもしれない。

 

映画祭のあいだは、あっちの会場からこっちの会場、関係者の宿泊先ホテルなど、リド島を駆けまわることになる。ある夜、歩いて移動中に、履いていたサンダルのひもが切れてしまった。まもなく次の取材が始まるのに、どうしよう?

とっさに近くのホテルに飛び込んだ。フロントでガムテープを借り、サンダルの底と足の甲をテープでぐるぐる巻きにしてくっつけ、取材場所に走った。そんなこともあった。

 

一方、自分で企画からかかわり、執筆した記事で、強く印象に残っているのは、映画「グランブルー」の主人公のライバル、エンツォのモデルとなった、エンツォ・マヨルカへのインタビューだ。

「グランブルー」は1988年、リュック・ベッソン監督作品。フリーダイビングの世界で頂点をめざして競い合ったふたりの伝説的ダイバー、フランス人のジャック・マイヨールと、イタリア人のエンツォ・マヨルカから着想した、競技と友情、恋の話で、映画は世界的成功をおさめた。

にもかかわらず、イタリアでは、長らく上映禁止だったことをご存知だろうか。実物のエンツォ・マヨルカが当作品を名誉毀損で訴え、勝訴した。結果、イタリアでは2002年になるまで、なんと14年間も上映されなかったのだ。

実物のエンツォに会って、その理由がわかった。実物のエンツォは、ジャン・レノがコミカルに演じたエンツォとは、似ても似つかない人だった。

インタビュー当時、エンツォはすでに70才近かったが、精悍で、とてもかっこいい男性だった。意志の強そうな、静かだが秘めた情熱を感じさせる、端正な顔。服の上からでも見てとれる、鍛え抜かれた肉体。知的で明確な話しぶり…上院議員を務めたこともあるそうだ。

エンツォは訴えた理由をこう語った。「うつくしいストーリーだし、よくできた映画です。でも、自分や家族、特に母が、ひどく戯画化されて描かれている。ゆがめられたイメージが流布し、家族が傷つくのを、だまって見ているわけにはいかなかったのです」

わたしはこの取材のため、初めてシチリアを訪れたのだが、エンツォが案内してくれたシラクーサの海は、思わず飛び込みたくなるような、青い透き通った海だった。古代の遺跡が点在する町には、アーモンドの白い花が咲き、かぐわしいオレンジの香りがただよっている。

シチリアの海を愛し、シチリアに根ざし、家族を大事に、克己心を胸に、深海へ、限界へと挑んだ、誇り高いシチリア人、エンツォ。2016年に亡くなったが、彼が見せてくれたシチリアは、今もわたしを魅了してやまない。

 

偶然だが、もうひとり、強く印象に残っている取材の相手もまた、シチリアの人だ。

映画監督のジュゼッペ・トルナトーレ。1980年代に「ニュー・シネマ・パラダイス」という映画が大ヒットし、一躍、世界的に名を知られるようになった。「海の上のピアニスト」、「マレーナ」、「鑑定士と顔のない依頼人」などの作品がある。

2000年の初めごろ、トルナトーレ監督がモニカ・ベルッチを主演にした新作「マレーナ」を撮影中と聞き、撮影現場のモロッコまで、カメラマンのマークといっしょに飛んだ。撮影が行われているのは、カサブランカから車で2時間ぐらいの田舎だ。物語の舞台はシチリアだが、経済的・気候的理由で、撮影場所をモロッコに移したという。

トルナトーレはちょっとシャイな感じの人だった。こちらの質問に注意深く耳を傾け、ことばを吟味しながら答える。

よく故郷シチリアを舞台にした映画を撮るが、彼にとってのシチリアは、エンツォのそれとは異なり、愛憎半ばする。シチリアから離れているとシチリアが恋しくてたまらないが、シチリアに帰ると一刻も早く出たくなるという。

祖父は学校に行けず、自力で読み書きを学んだ。本が好きで、毎晩、ダンテの「神曲」を読み聞かせてくれた。父は、自分のやりたいことをやるためにたたかうことを教えてくれた…。そんな話を聞いていて、目の前のトルナトーレ監督と、「ニュー・シネマ・パラダイス」の主人公が重なった。

わたしが、故トロイージ監督に言及し、なぜ、南イタリア出身の監督は心をゆさぶる映画をつくるのが天才的にうまいのか、と聞くと、トルナトーレはふっと自虐的に笑い、人はよく、貧しい人々の感情に魅了されるものだ、と答えた。そして、シチリアを含め、南イタリアが歴史的に不遇だったことに言及した。それがある種、独特の感受性を生み出したのだろうと。

イタリアの南北問題に関しては聞き知ってはいたが、北のヴェネツィアに住んでいる自分は、それまで、南の人の声をじかに聞く機会はなかった。

シチリアは、南北に長いイタリア半島の、まだ下にある島だ。ヴェネツィアからは地理的にも、文化的にも遠く、外国に行くようなもので、気軽に行ける距離ではない。まして、シチリアの人と知り合ってその人の考えを聞く、なんてことは、ふだんの生活ではまずない。

この仕事がなければ、イタリアという国に、そこまで深く鼻をつっこむことはなかっただろう。シチリアやマテーラ、モロッコまで行くこともなかっただろうし、会う人間の種類も、数も、もっと限られていたはずだ。

この仕事があったから、数多くの出逢い、そして学びがあった。ヴェネツィアにいただけではわからない、イタリアという国の多様さ。それぞれの地域の、人の、特性にふれ、彼らの誇り、あるいは悩みの片鱗をうかがうことができた。

 

記者証は、そんな仕事の数々に随行してくれた。

日本から遠く離れた場所で、業界のこともわからず、これでいいんだろうかと、自問自答しながらやっていた日々。無知による失敗もあったし、イタリア報道陣が集まるような場所に、外国人がひとり、看板もなく入って行くのは勇気がいった。

そんな自信のない自分を、この小さな記者証が、かろうじて支えてくれていた。

大丈夫、胸を張って行きなさい、と。

 

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ABOUT ME
湊夏子
長いイタリア暮らしを経て、帰国。日英伊の3か国語でメシの種を稼ぎ、子どもを育てているシングルマム。
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