「地蔵さんみたいやなあ」
ヴェネツィアの街のあちこちで見かける、聖母マリアをまつった小さな祠。それらをこう評したのは日本から遊びに来ていた父だった。
壁に埋め込まれていたり、塀の上にちょこんと乗っていたり。通りすがりに拝んでいく人も多く、花や小銭などの供え物がしてある。そのさり気ない存在感と身近さが日本の地蔵にそっくりなのだ。
ヴェネツィアにはティツィアーノやベッリーニなどルネサンスの巨匠の手によるマリア像の傑作がごろごろしているが、街角にひっそりとたたずむ、名もないこれらの「マリア地蔵」も味わい深いものがある。
それにしても、イタリアの街角で見かけるのはマリアさまばっかりだ。なぜ救世主イエス・キリストその人ではなく、母のマリアをここまで崇めたてるのだろう?不思議に思ってまわりの人たちに聞いてみると、神に選ばれ、神の子を宿したということ自体が、すでに神聖な存在なのだと教えてくれた。
さらに調べてみると、これはイエスの母マリアに仲介者として神への取り成しを願う、「マリア崇敬」という宗教概念なのだそうだ。マリア崇敬は主にカトリックや東方正教会に見られる。一方、聖書のみに基づき、教義の拡大解釈をしないプロテスタントでは、マリアは一人の人間で、特別な崇敬の対象ではないそうだ。
イタリアではおかあさんがとても尊敬され、イタリアの男にはマンモーネ(おかあさんっ子)が多いが、それはこのマリア崇敬から来ているのかな、と思った。
マンモーネの意味はマザコンに近いが、イタリアではそんなに否定的な言葉でもない。
「ぼくはマンモーネ(おかあさん子)でね、マンマに背中を掻いてもらうときがいちばんリラックスできるんだ」と、悪びれもせずにいう中年の息子もいれば、息子の恋人に向かって「あなたは幸運ね、こんなにハンサムですてきなうちの息子の恋人になれて」とまじめ顔でいう母親もいる。
マンモーネを恥じているふしはない。むしろ、「母親の愛情を素直に受けとってどこが悪い。ぼくが甘えるとマンマもうれしいんだから親孝行だ」と胸を張る。それを聞いてマンマもうれしそうだ。
一般的に、プロテスタントの国では、男も女も早く親元を離れて自立することが求められる。一方、イタリアでは母の翼のなかにいることにコンプレックスをもたないから、あまりあせらない。母親のほうも、なになにさんところの息子さんはもう大学を卒業されたわよ、あんたもがんばりなさい、みたいなことをあまりいわない。
そもそも個人主義であまり他人を気にしないし、たとえば大学を卒業するのだって、各自が卒業資格を得た日に卒業というシステムだからみんなバラバラだ。日本の受験とか、就活とか、いっせいに競いあうという事態がほとんどない社会だから、落ちこぼれてもそこまで悲愴感がない。
もしマリアさまではなくイエスを崇拝していたら、こうはならなかったのではないかと思うのだ。イエスを崇拝するということは、その個人の功績を称えることだ。そういう精神性の文化だと、なにかをなさねば一人前の男と認めてもらえない、そういう社会になるのではないか。
実際、同じキリスト教でもカトリックではない国、アメリカ、イギリス、ドイツなどではそういう精神的傾向が強いように思う。日本もそうだ。精神的拠所が存在そのものにではなく、肩書きにあるから、自分の資質以上に無理して、がんばってしまうことが多い。というか、そういうがんばりを強いる社会である。
それに比べてイタリアは、神の手となってなにかをなしたキリストよりも、神に選ばれて神の子を宿した聖母に、より神の愛の神秘を感じとる感性のお国柄だ。だから国民が一丸となって競い合うことはないし、全員がそこそこ優秀というふうにはならない。だけど、雑草は雑草なりに元気だ。マンマの「アモーレ(愛)」として、「テゾーロ(宝)」として育ってきているから、自分が薔薇の花でなくても胸を張れるのだ。
イタリアは国としてはともかく、個人が自分らしく生きられるという点ではいい線行っている。たとえほかで見下されたり、疎んじられたとしても、マンマに愛され、常に聖母さまに見守られているーーその自信に自分らしくあることを支えられている彼らが、ちょっぴりうらやましい。
*写真はすべてヴェネツィア在住の中村美律子さんのご協力によるものです。Grazie!
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