ヴェネツィア

モニカの真珠

 

あ…。うちを出たとたん、陽の光に目がくらんだ。ヴェネツィアの夏の日差しは強い。立ち止まり、光の残像が目から消えるのを待ってから、歩き出す。

ヴェネツィアの道はよく言われるように、迷路のようで、よくだまされる。路地の先が行き止まりになっていたり、かと思うと、人ひとりが通れるほどのトンネルになっていたり。それでも、住み始めて一年ちょっともたつと、じぶんの生活圏内は、ほぼ、迷うことなく行けるようになった。

今日も目的地をめざし、地元の人のように足早に歩く。広場に出て、カフェテラスのそばを通り過ぎようとしたら、チャーオ!と聞きおぼえのある声がして、ふりかえった。

最初に目に入ったのは、かたちのいいおへそにのぞく、真珠のピアスだ。金の曲線にささえられた真珠が、まるでそこに自然に咲いたかのように、きよらかな光を放っている。

目を上げると、モニカだった。天使みたいな、くるっくるの金髪の巻き毛。すっぴんの顔に、いたずらっぽいまなざし。ちょっと皮肉な感じのする、片頬だけのほほえみ。

作業着の白いつなぎを着ているが、もろ肌脱ぎで、上はタンクトップ。下は、塗料でところどころ汚れたつなぎのズボン。長い脚を右に左に投げ出し、カフェテラスの椅子に深くもたれ、うまそうにタバコを吸っている。

「モニカ!元気? この近くで仕事?」

モニカは塗装職人だ。家の内壁を塗ったり、修復したり、天井の漆喰に装飾を施すといった仕事をしている。

「うん。暑いから疲れる」

だるそうにタバコの煙を吐き出すと、「今度、海に行こうよ。自転車で、灯台のほうまで行かない?」と誘った。「いいよ、電話して」と答え、すぐ別れたが、おへその真珠のうつくしい残照は、しばらく目の奥から消えなかった。

 

モニカと知り合ったのは、ヴェネツィア郊外の、スカイダイビングのお試し体験の場だ。

結婚してヴェネツィアに住み始めたものの、そのころはまだ仕事もなく、ひまだった。で、スキューバダイビングやら、サルサやら、気の向くままにいろいろ手を出していた。今思えば、あれが人生でもっともお気楽でいられた時期だったかもしれない。長くはつづかなかったけれど。

 

スカイダイビングの体験の日は快晴だった。が、格納庫の片隅でブリーフィングを受けるわたしの心は、だんだん曇っていった。

もしパラシュートが開かなかったら、どうしよう?インストラクターとタンデムとはいえ、空から飛び降りるわけだから、想定外の事故だってありうる…。

不安を払拭できないまま、専用のハーネスを装着してもらっていると、スカイダイビングスーツ姿の女がひとり、フィールドから帰ってきた。その腰にまとわりつくようにして、10歳くらいの女の子が話しかけている。

「ママが落ちてきたの、あたし見てたよ。ママだって、遠くからでもわかったよ」

女はにっこりとほほえむと、近くのソファに腰をおろした。そして、となりに女の子を座らせると、まじめな顔になって、

「いい?ママは飛んだの。落ちたんじゃないの。飛んだんだからね」

子ども相手に、どうでもいいことを真剣に訂正している。いや、むしろ、意味的には子どものほうが正しいのに、自分は飛んだのだと言い張っている。変な女…。それにしても、空を飛んだ、と言い切る自信がうらやましい。

そんなことを思っているうちに、装着は終わった。いざ出陣。どうか無事に着陸できますように…。落ち着くため、深呼吸をひとつした、その背中に女の声が飛んできた。

「あなた、日本人?カミカゼはダメよ」

おどろいてふりむくと、きれいに澄んだ空色の瞳が笑っていた。

「空を飛ぶって、最高のエクスタシー。こわがらないで、楽しんできて。」

 

それ以来、ときどきモニカと会う。家がたまたま、わりと近いこともあって、夕方など「今、ひま?」と電話をかけたり、かかってきたり。たいていは広場のカフェで待ち合わせ、たあいもないおしゃべりをして別れる。

モニカは、娘のフランチェスカとふたり、ヌオーヴェ河岸に近いアパートの、小さな屋根裏部屋に住んでいた。

 

 

初めてモニカのうちに遊びに行ったのは、日もずいぶん短くなり、秋も終わろうとするころだった。

アパートの建物の前に着くと、一階の玄関の扉が少しだけ開いている。モニカに、下の呼び鈴が壊れているから開けてある。入って、上まで上がってきて、と言われていたのを思い出した。

めまいのしそうな急な階段を上がっていくと、上のほうからダンス音楽が聞こえてきた。屋根裏部屋にたどり着いたときには、耳をつんざくほどの音量で、呼び鈴をいくら押しても返事がない。

頭に来て、扉を思いっきり叩くと、急に音楽がやんだ。バタバタと足音が聞こえ、扉が開いたと思うと、モニカが顔を出した。ハアハア息を切らし、顔は上気して、額は汗で濡れている。

「ごめんごめん、上の呼び鈴も壊れちゃったの」

「マジ? 満身創痍のアパートね」

モニカは舌を出して苦笑いし、「せまいけど、入って」と中に入れてくれた。

「すごい汗。どうしたの?」

「フランチェスカと踊ってた」

モニカが額の汗を手の甲でぬぐい、暑い暑いと、Tシャツの裾をあおっているところへ、どこに隠れていたのか、姿が見えなかったフランチェスカが突然現れ、モニカの背中に飛びついた。

「ママ、もっと踊ろう!」

フランチェスカの突撃を受け、モニカはよろけた。「もうムリ。死んだ~!」と叫び、床に倒れた。フランチェスカは「大丈夫だって。ねえ、もっと踊ろう」と母親を揺すぶる。モニカは目をつぶり、答えないでいるが、「ママ、起きて。ねえ、ねえってば!」と、娘のほうもなかなかしつこい。

モニカはとうとう観念したのか、「もう終わり。お客さまがいらしたでしょ」と、起き上がった。らしからぬ言い方をするので、「ずるいな。わたしを言い訳に使わないでよ」とにらんだら、へへっと笑ってごまかした。そして、

「ねえ、アペリティフが飲みたくない?もうちょっとしたら、うちの小っちゃなテラスに、ちょうど太陽があたる時間帯なんだ。お日さま浴びながらアペリティフ飲んだら、いいだろうなあと思って。」

「いいね。グッドアイデア!」

色よい返事にモニカはご満悦で、「ちょっと待ってね、今、仕入れるから」と、電話が置いてあるところに行き、どこやらかにダイヤルした。

 

晩秋のはかない太陽をかき集めるようにして、わたしたちがテラスで日光浴をしていると、扉をノックする音がした。

「開いてるよ〜!」モニカが大声を張り上げると、モニカのラフさとは正反対の、ちゃんと上着を着た、折り目正しい感じの男性が、小さな扉から長身を折り曲げるようにして入ってきた。

モニカを見てほほえみ、「ほら」と、持ってきたプロセッコのボトルを手渡す。「ありがとう〜!」モニカは相好を崩すと立ち上がり、男性の頬っぺにチュッとした。そしてわたしに「こちら、クリスティアーノ。いっしょに仕事してる建築家のひと」と、紹介してくれた。

クリスティアーノはわたしに「よろしく」とあいさつすると、そばにいるフランチェスカに「やあ、おちびちゃん!元気にしてた?」と声をかけた。そしていっしょにテラスにすわり、モニカのおしゃべりを、にこにこして聞き始めた。神経のこまやかな人で、わたしやフランチェスカにも、ときどき言葉をかけたり、うなずいたりして、気を配ってくれる。

モニカはプロセッコをひと口飲むと、「ね、あまやかされるって、いいよね」と、わたしに目くばせした。気まぐれを笑って聞きとどけてくれる、そんな男友だちの存在に満足そうだ。

恋人? クリスティアーノがお手洗いに立った隙に小声でたずねると、ううん、単なる友だち。あたし、前の彼と別れて今ひとりだから、やさしくしてくれてるの。

ふうん。でも、やさしくしてくれるのは、女としてのあなたに興味があるからじゃないの? と探りを入れると、「そりゃそうでしょ。興味ぐらいなきゃ、女どうしだってつきあおうなんて気にならない」と、はぐらかされた。

「でも、それだけ。あたしは娘とふたり、生活のペースもできあがっちゃってるし。少なくとも今のところは、この生活に男の人を入れる気はない。あたしの生活を尊重してくれて、ときどきわがままを聞いてくれる男友だちがいれば、それで十分」

そんな、こっちの思惑どおり動いてくれる男なんて、いるのだろうか? だいたい、好きでもない相手にあまやかされても、気持ちわるいだけだ。めんどくさそう、とわたしが顔をしかめると、

「どうして? 別になにもめんどうなことないよ。口説かれるのがうっとうしければ、ストップをかければいいんだし、反対に楽しければ、ゲームとして楽しむ。きわめてシンプルだよ」

あつかましいほどあっけらかんとしたモニカの言い方に、お手洗いからもどってきたクリスティアーノが苦笑している。

たしかに、じぶんが欲するものを明確につかんでさえいれば、めんどうなどないのかもしれない。だけど、そんなにわりきれるものか。心なんてあやふやで、天気のように変わる・・・わたしは自信満々のモニカに軽いいらだちをおぼえた。モニカはそんなわたしの変化に気づいたのか、

「まあ、いつもこちらの思う通りにさせようったって、そうはいかないけどね」

 

おとな三人がおしゃべりに熱中していると、フランチェスカがおもしろくないらしく、クリスティアーノが持ってきたプレゼントの包みにしきりに触れては、ママ、これ開けてもいい?と、うるさい。だめよ、とモニカ。フランチェスカはしばらくだまるが、すぐにまた、ねえ、中身はなんなの?どうしてママにあげたの?と、母親にからみだす。

モニカがとうとう、「あんたには関係ないことよ」と、ぴしゃりと言うと、フランチェスカは顔を真っ赤にして怒り出した。ママなんか大きらい。うちのママは全然、ママらしくない。よそのうちのママは、ママみたいに男の人からプレゼントもらったりしない!

モニカは顔色ひとつ変えず、視線だけで娘をつかまえ、

「フランチェスカ、あんた、あたしがそこらにいる退屈なママじゃなくて、ほんとうによかったね」

さらに、言いかえそうとしたフランチェスカを制して、

「よそのうちがどうのこうのって、他人のふんどしで相撲を取るようなものの言い方は、やめなさい」

モニカのこわいほどの威厳に、フランチェスカばかりか、そばで話を聞いていたクリスティアーノとわたしまで固まってしまった。モニカはそんなわたしたちのほうに向き直ると、さっきまでのごきげんな笑顔にもどり、おなかすいたね、だれが昼ご飯つくる?と、のたまった。

 

 

そんな気の強い、女王様気質のモニカだが、彼女の涙を、一度だけ、見たことがある。調べ物があるわたしにつきあって、サンサルヴァドール教会にいっしょに寄ってくれたときだ。

アペリティフでも飲みに行こうと誘いにやってきたモニカは、思わぬ成り行きに、教会って苦手なんだよねえ、と渋っていたのだが、すぐすむからというわたしに背を押されて、教会の門をくぐった。年の暮れも近い、寒い夕方だった。

わたしは前もって訪問を知らせておいた教会の司祭さんにいくつかの質問をするため、事務室に入った。手早く質問をすまそうと軽い気持ちでいたわたしとちがって、司祭さんが実に熱心に答えてくれたので、思ったより時間がかかってしまった。司祭さんにお礼を述べながらも、モニカに悪いな、と気が気でなく、終わるとわたしは事務室を飛び出した。

教会を見渡すと、ミサのために集まっている人々から離れたところに、モニカがひとり、ぽつんと立っている。わたしはお祈りに来ている人たちのじゃまにならないよう、なるべく足音をたてないよう気を遣いながら、足早に彼女に近づいた。モニカ、と声をかけようとしたその寸前、彼女の頬がきらっと光ったのに気がついた。

わたしは言葉をのみ込んだ。息をとめたまま彼女の視線をたどってみると、受胎告知の絵があった。

絵の前にたたずんでいる彼女の長身には、声をかけられないような雰囲気がある。わたしはまわれ右をして反対側の通路にまわり、扉の近くで彼女を待った。

涙を見てしまったことを、彼女には気づかれなかった。

 

 

季節はめぐり、5月になった。あちこちにジャスミンの花が咲き、さわやかな初夏の空気をかぐわしい香りで染めている。

その朝、わたしとモニカは、リド島に出かけた。サンマルコ広場の近くからフェリーボートに乗り、リドに着くと自転車を借りた。そして、島の北部にある、自然保護地区の砂浜をめざして漕ぎ出した。

ビキニトップに短パンという格好で、海岸沿いを走る。いい気分だった。肌を太陽がじりじりと灼いているが、空気がさわやかなので暑くはない。この風にいつまでも吹かれていたい、そんな初夏の朝だった。

 

松林に囲まれた、あまりひとけのない砂浜にたどり着くと、待ってましたとばかりにサンドイッチにかぶりつく。まだ12時前なのに、またたく間にたいらげてしまった。

ようやく人心地ついて、今度はゆっくりとビールを飲みながら、モニカが笑った。食べても食べてもおなかがすくなんて、まるで妊婦みたい…。わたしはビールを受け取ると、ひと口飲み、妊婦って、やはりそんなにおなかがすくものなの?と、聞いた。すくわね。あまりにもおなかがすくから、おなかの中には赤ちゃんじゃなくて、おそろしい怪物でもいるんじゃないかって、こわくなったくらい。

やだ、そんなこわいこと言わないでよ…。本気でぞっとしているわたしを見て、モニカはふふっと笑った。でも、生まれてみると、この世のものとは思えないくらい、きれいな、かわいい女の子だったけどね、と目を細めた。フランチェスカ? そう、フランチェスカ、あたしとジャンパオロの…。

 

 

モニカは海のほうに目を向けたまま、語り出した。

二十歳のころ、あたし、二十も年上の人に恋したの。あたしが通っていた美術大学の教授で、彫刻家だった。はじめは、ちょっとした好奇心だった。仕事しか目にない、何にも動じないという感じのその人の、動じる顔が見てみたい。近づいた動機はほんと、そんなとこだったの。なのに、じぶんで仕掛けた罠に、じぶんではまってしまった。夜、彼の仕事場が逢引きの場所になった。

この人が好きだ。そう気づいたときは、ぞっとした。なんとかして元の遊びにもどさなきゃって、思ったときは、もうおそかった。それは彼も同じで、ふたりしてまっさかさまに恋の奈落に落ちていった。

愛して、愛されて、はじめて嫉妬ってものを知った。彼が奥さんと別れて、あたしを選んでくれるんでなければ、あたしはもう終わりだ。そんな強迫観念にとらわれた。

自由になりたくてうちを出たのに、皮肉よね。自由どころか、あたしは完全に彼の虜だった。なんとかして彼を自分のものにしなければ、もうあとはない。追いつめられて、ずいぶん無茶なこともした。妊娠したって、嘘をついたりして…。でも、無理は通らないものね。結局、彼は奥さんのもとにもどり、あたしは苦い敗北感をなめさせられた。さらに皮肉なことに、そのあと、じぶんがほんとうに妊娠していることに気づいたの。

 

愛は去り、あたしにはおなかの子だけが残された。堕ろすしかない、そう思った。男にもてあそばれ、妊娠させられた馬鹿な女って、それ見たことかって言われる。それが死ぬほどこわかったの。あたしたちの、少なくともあたしにとってはいちばん崇高で、うつくしかったものが、他人の思惑によって汚されるのは、耐えられない。明日、手術を受けに行こう。そう決めた。

明日が来、あさってが来、でもなぜか病院には行けなかった。明日こそ、そう思うんだけど、また行けない。自分でも、理由がわからなかった。宗教や道徳上の理由でないのは確かなのに。

いても立ってもいられなくて、街中ほっつき歩いた。わらをもすがる思いだったからかな。ふだんは教会なんか、足を踏み入れたこともなかったのに、その時はなぜか引かれるようにして、ある教会に入ったの。そこで、受胎告知の絵が目に触れた。

あのとき、初めて、マドンナをひとりの女として意識した。

大天使から、あなたは神の子を宿したって突然告げられて、どう思ったんだろう。処女で神の子を身ごもった。そんなことをみんな信じるって、疑いもなく信じることができたのか。それともやっぱり不安だったのか。

不安だったにちがいない、こわかったにちがいない。絵を見て、わたしはそう感じた。おそれ多いけど、今のあたしとおんなじだ、と思ったの。でも、マドンナは逃げ出したりはしなかった。

急に、ものすごい怒りが湧いてきた。だれにって? 自分によ。男に捨てられたとか、父なし子だとか、世間体ばかり気にして、自分で自分を貶めている。

でも、あたしの恋を、おなかの子を、あたしが肯定しないで、いったいだれがしてくれるっていうの? だれも。あたしがやらなきゃ、だれも…。そう思ったら、負けん気がもどってきた。あたしの恋の、そのだいじな果実であるこの子を、闇に葬り去ったりはしない…。

 

モニカが話し終え、聞こえるのは潮騒の音だけになった。目の前にはおだやかな海があり、木洩れ日がちろちろと肌をなめている。

海を見ているモニカの、金色に日焼けした肌。その、しなやかに息づくおなかの真ん中に、一粒の真珠が、無垢な輝きを放っている。

そのピアス、すごく似合ってる。ほめると、モニカはまた、いつもの皮肉っぽい顔にもどり、片頬だけでほほえんだ。そして、「フランチェスカが学校から帰ってくる時間だから、もう行かなきゃ」と、砂をはらって立ちあがった。

 

〜〜終わり〜〜

 

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*写真はすべてイメージ写真です。

Klaus StebaniによるPixabayからのカバー写真  

UnsplashRomain Cholletが撮影した写真 (広場)

Tonda TranによるPixabayからの画像 (窓) 

UnsplashNicolae-George Nedelcuが撮影した写真 (教会)

EliasによるPixabayからの画像 (真珠)

ABOUT ME
湊夏子
長いイタリア暮らしを経て、帰国。日英伊の3か国語でメシの種を稼ぎ、子どもを育てているシングルマム。
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