探し物をしていたら昔の写真が出てきた。ヴェネツィアで暮らしていたころの、元夫と娘の写真。
まだ2才ぐらいか。小さい娘の手をつなぎ、元夫が運河沿いの、家の前の通りを歩いている。もう片方の手には、一輪の赤いバラのつぼみ。それを見て思い出した。あれはボッコロの日だったな、と。
ボッコロ(bocolo)とは、ヴェネツィア方言でバラのつぼみのこと。ヴェネツィアでは4月25日に、男性が妻や恋人にボッコロー 一輪の赤いバラのつぼみー を贈る風習がある。毎年この日には街のあちこちの花屋で、バラを買い求める男たちの姿を見かけたものだ。
このならわしは遠い昔の伝説に由来する。
その昔、愛しあっていた若い恋人たちがいた。娘は総督令嬢、若者は平民。身分違いの恋は反対され、若者は相手にふさわしい地位を得ようと、戦争で手柄を立てるため出征する。しかし、敵の攻撃を受け、不運にも負傷。倒れた場所に咲いていた白いバラの花を、傷口から滴り落ちた血が赤く染めた。
若者は死に、その戦友から娘のもとに、愛の証である赤い血のついた白いバラが届けられた。最愛の人の死を知った娘は無言で部屋に閉じこもる。翌日、娘が部屋で死んでいるのが見つかった。娘の胸には、恋人の血で染まった白いバラが抱かれていた…。
そんな悲恋が由来となって、娘が死んだ日、ヴェネツィアの守護聖人であるサン・マルコの祝日である4月25日が、ボッコロの日となった。ヴェネツィアではこの日、男という男は赤いバラのつぼみを抱え、愛する人のもとへと向かう。義理の父も義母のために毎年、バラを買いに行っていた。元夫もそうだった。
もう一度、手元の写真を見てみる。
連れ立って家の方に歩いてくる元夫と娘は、楽しい内緒話でもしているかのような、はずんだ笑顔だ。バラの花をママにプレゼントして喜ばせよう。そんな話でもしていたのかもしれない。
彼らの帰りを家の前で待っていたわたしは、その様子をカメラに捉えた。すぐに娘がわたしに気づき、「ママー」と駆け寄ってくる。それを元夫がうしろで微笑んで見ている。
絵に描いたようなしあわせな光景…。写真を見て、まるで別の人の人生を眺めているかのようなふしぎな感慨をもった。長い時間と距離を経たせいか、前世のことのように映る。
ふと、わたしたちの結婚披露宴で友人のFさんがしてくれたスピーチを思い出した。Fさんは敬愛する年上の友人で、わたしが初めてイタリア旅行に行ったのは、彼女に誘われてのことだった。初めてヴェネツィアを訪れたのもその時だ。
Fさんは披露宴で次のような話をしてくれた。
「16世紀、盛期ルネサンスにヴェネツィアで活躍した画家に、ジョルジョーネという人がいます。彼が描いた『テンペスタ(嵐)』という作品を、ヴェネツィアのアカデミア美術館で新婦といっしょに見ました」
「荒れた街と暗い森を背景に、左に騎士、右に赤ん坊を抱いた裸婦がおり、二人はそれぞれ別の方向を見ています。空は稲妻が光り、不穏な色をたたえ、今にも嵐がやって来そうです」
「この作品は専門家の間でも、謎に満ちた作品と言われています。新郎新婦のおふたりは、これから結婚という、愛の謎を解く旅に出られるわけですが、その旅が幸多きことをお祈りします」
どこをどう掘ればこんな深い話ができるのか、Fさんの話に会場はしーんとなった。自分も強く打たれたが、その意味は理解できていなかった。当時の自分は、結婚はゴールインで、そのしあわせがずっとつづくものと能天気に信じていたから。
しかし、結婚生活を続けるなかで、Fさんの言葉がただの高踏的な比喩ではなかったのだと思い知る。結婚は愛の謎を解く旅だとFさんは言ったが、確かに、結婚も、愛も、わからないことだらけだ。
あたたかさ、おだやかさといった、かけがえのなくすばらしい時間をもらった一方、見解や価値観の相違に愕然とした。その溝をなんとか埋めようとするが、埋まらない。乗り越えることもできない。
なぜこのひとと結婚したのだろう…。そんな今さらな疑問が頭に浮かぶが、わからない。彼も同じだったろう。自分が選んだことではあるが、なりゆきでもあった。旅路のなかでわたしたちはお互いを見失い、道に迷った。
結局、この旅には終止符が打たれた。これからは別々の道を進もうということになった。が、夫婦は別れても、結婚から生まれた縁 ー 子どもや、おたがいの両親や兄弟といった人たち ー との関係は終わらない。というか、わたしの場合、終わらなかった。
夫の両親は離婚して日本に帰国してからも毎年のように会いに来てくれ、むしろ絆が深まった。義理の姉や妹とも定期的に連絡を取り合っている。結婚によって生まれた種々の縁が、離婚後もずっとつづいている。
元夫は別れて何年かは音沙汰がなかったが、その後は電話がかかってくるようになった。今も時折、娘の近況を報じたり、お互いの安否確認などしている。
ふしぎである。ふたりの愛の謎解きの旅はとっくの昔に終わったのに、エピローグは続いているのである。
冒頭のボッコロの伝説では、娘は愛する人の死を知り、死んでしまう。耐え難い苦痛が彼女の命を奪ってしまう。若い彼女の一途な思い、純粋さが胸を打つ。
若い時、人は愛のストーリーに完璧を求めがちだ。至福か、絶望か。完璧か、ゼロか。どちらかしか認めない。妥協のかたちを許さない。
しかし、世界はもっと複雑で豊穣だ。もし彼女が生きていたら、どうだっただろう。それはそれで、また新しい愛に出会っていたかもしれない。また、新たな愛の謎を解きに行ったかもしれない。こればかりは、生きてみないとわからない。
バラのつぼみは無垢でうつくしいが、萎れかけのバラだって捨てたものでもない…。そんなふうに思える日が来るとは、若い日々には想像だにしなかった。愛のかたちはこうあってほしい、こんな幸福がほしいと願うのに、現実がそうならないことにあがき、苦しんだ。
でも、人生は生きてみるものだ。絵に描いたようなしあわせな光景でなくても、案外、そこそこ機嫌よくやれることがわかった。道も、風景も、いろいろある。
4月25日、ヴェネツィアにボッコロがあふれ、愛というふしぎな贈り物が交わされる。愛の謎解きの旅は行程を変え、連れを変えてもつづいていくもののようだ。生きている限りは…。
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PeggychoucairによるPixabayからの画像 Thank you!