ヴェネツィア

真夜中のソリタリオ

 

ヴェネツィア。深夜。夫の実家。トイレで目が覚めたら、広い家のなかは真っ暗だ。どこに電気のスイッチがあるかもわからず、手探りで歩を進めたら、キッチンのほうから薄明かりが洩れている。

パタッ、パタッ。なにか音がする。変に思い、見に行ってみると、舅がひとり、食卓でカードをめくり、トランプの一人遊び、ソリタリオをしている。(注:ソリタリオ(伊)=英語ではソリティア)

舅はわたしに気づき、ほほえんだ。

「こんな時間に、どうされたんですか?」

「眠れなくてね」

「…」

「いつものことだ。心配しなくていいよ」

翌朝、夫に聞いたら、舅の不眠は今に始まったことではない。深夜のソリタリオは毎度のことだそうだ。

「そんな…それはつらいね」

わたしの言葉に、夫はこたえなかった。

 

睡眠不足をどこでどのように補っているのか、起きているときの舅は、ほがらかで、快活なひとだった。わたしたちが結婚したころはまだ勤めに出ていて、週末はテニス、夏は海、冬はスキーと、活発だった。クラシック音楽が大好きで、よくコンサートやオペラに連れていってくれた。あまり社交的でなく、外に出たがらなかった姑とは正反対だ。

しかし、真夜中に見た顔は、昼間の顔とは別人だった。見てはいけないものを見てしまった気がして、不眠の理由をそれ以上たずねることはしなかった。

その後も何度か、舅が夜中にソリタリオをやるのを見かけた。夏や冬、休暇で、山の家でいっしょに過ごしたときなどだ。夜中に目が覚めると、リビングに薄明かりがついている。そこで舅がひとり、カードをめくっている。その背中がさびしくて、胸を突かれた。

でも、翌朝には、そんなことなどなかったような明るい笑顔で、「さあ、早く朝食をとりなさい。山歩きに行こう」などという。あわててコーヒーを飲み、いっしょに出かけると、精力的に歩き、「これはウサギの足跡、あれは鹿」などと教えてくれる。そんな様子は、夜中に見た姿とはほど遠い。それで、あれは自分が寝ぼけて見た夢だったのかな、と、思ったりもした。

 

舅は父が経営するヴェネツィアの船会社を継いだ。その会社は何代か前からあったが、舅の父の代になって大きな発展を遂げた。舅が継いだころには、ヴェネツィア港の曳航・サルベージ業を一手に担っていただけでなく、オランダやイギリスなど、外国の油田開発まで手がけていたそうだ。それが80年代、労働組合の動きの激化にともない、経営が傾いた。そして会社は人手に渡ってしまった。

そこまでの話は、さらっとは聞いていた。また、知り合いや近所のひとからも耳に入ってきた。が、舅がいともあっさり語るので、こちらもあっさり受け止めていた。昔の話で想像もつかないし、舅は今は別の仕事についていて、困っているようには見えない。まだ結婚してまもないころで、この家の事情もよく知らなかった。

が、それから一年ほどして、夫の祖母ー舅の母ーが亡くなった。祖母の死をきっかけに、今まではっきりと口にされなかったことが、少しずつあらわになってきた。

 

〜〜〜

 

夫の祖母とは二、三度、会ったことがある。最初は、結婚する前。夫が祖母の家に連れていってくれた。

祖母は、サンマルコ広場の総督宮殿の並び、スキアヴォーニ河岸に面した館にひとりで住んでいた。外壁が薄いローズ色のため、カーザ・ローザと呼ばれていた。一階、二階は舅が経営していた船会社の本社のオフィスで、玄関には真鍮のパネルに、苗字と同じ社名が入っている。

祖母の住居はその上階だ。エレベーターを降り、扉を開けると、優雅な調度品に囲まれたサロンが現れた。夫が「ノンナ(おばあちゃん)?」と声をかけ、その奥の居間に進むと、祖母の姿が見えた。祖母は窓際にすわり、窓の外を見ている。その窓からは、サンマルコ湾から外海まで一望でき、湾を行き交う船の様子が手に取るようにわかった。

夫の祖母は、当時すでに90歳を超えていただろう。小柄なからだに髪をきれいにセットして(あとでそれはカツラだったことがわかった)、上品な服装に、真珠の首飾りや色石のブローチをつけている。高齢と、一部の隙もない服装のせいか、なまなましさがなく、蝋人形のようだ。

夫がわたしのことを「ガールフレンドだよ」と紹介しても、ああ、そう、というぐらいで、あまり反応がない。でも、夫のことはかわいい孫と認識しているようで、目に入れても痛くないという感じで、飲み物やらお菓子やらをすすめている。

2回目はヴェネツィアの夏の大花火、レデントーレの夜だった。寝室で休んでいる祖母に、「屋上に花火を見に行くね」と夫が声をかけると、「ああ、楽しんできなさい」と、投げキスをして見送ってくれた。

屋上のテラスからは、サンマルコ湾のずっと先まで見渡せた。右側に旧税関の建物、そして、その向こう側に、ジュデッカ島のレデントーレ教会がライトアップされ、闇のなかに白く輝く姿が見える。海上に目を向けると、花火を見るために集まってきた無数の小舟が、夜のサンマルコ湾を埋め尽くしている。

やがて時が来ると、真っ暗な空に次々と花火が打ち上がり、夫とふたり、その花火に見とれた。その後も毎年、レデントーレの花火は見たが、いつも人混みにもまれてのことで、あのように静かに全景を見られたのは、あれが最初で最後だった。

祖母には二、三度会っただけだが、その様子、暮らしぶりを見ていると、ちょっと混乱した。祖母はお手伝いさんにかしずかれ、余裕しゃくしゃくという感じで、サンマルコ湾を見下ろす窓際にすわっている。その落ち着いた様子を見ていると、会社は手放したって言っていたけど、まだ一部残っているのだろうか、と思ったりもした。

別の日には夫の名前のついた曳航船を見かけた。「あれ?手放したんじゃなかったっけ?」と聞くと、夫は「そうだよ。船に名前が残っているだけ」と、腹立たしそうに目をそらす。なにか腑に落ちない。

 

それから一年ほどして、祖母が亡くなった。涙をハンカチで拭いながら、姑が、ふと漏らした。

「会社が人手に渡ったこと、お義母さんが最後まで知らなくてよかった…」

そうか。そうだったのか。おばあさんは知らされていなかった。だからあのパラッツォの上階に、ずっと誇り高く陣取っていられた…。

女王然として窓からサンマルコ湾を見下ろしていたおばあさんの姿を、わたしは思い出した。

一方、それを隠し通してきた舅や姑の心の負担は、いかほどのものかと思わずにいられなかった。お葬式のミサの最中、わたしは舅と姑の顔を盗み見た。ふたりは疲れた様子で目を伏せている。しばしふたりの横顔を見つめたが、その胸の内まではわからなかった。

 

〜〜〜

 

祖母の死で、すでに終わっていた時代の、その最後の幕が引かれた。それまでは昔のことを聞いても、歯切れの悪い返事しか返ってこなかったのが、もう守るひとがいなくなったからだろうか。折にふれ、思い出話が、ぽつっ、ぽつっと、家族の口から出るようになった。

「あれは今から十数年前。子どもたちがキャンプで出かけていて、めずらしく、夫とふたりきりで夕食をとっていた時だった…」

そんなふうに姑が口を開いたのは、夫の実家で、クリスマスツリーの飾り付けを手伝っていた時だ。

「夫が唐突に、事業が人手に渡るかもしれない、と打ち明けたの。青天の霹靂で、わたしは絶句して彼の顔を見つめたわ」

そう語る姑は、うつろな目をして、きらきら光るツリーの飾り玉を手でもてあそんでいる。

「長い沈黙の後、どうするの?と聞いた。夫はいつもと同じ顔で、まるで明日はパーティーだ、とでもいうような口調で、『ピストルで頭をぶち抜くか』と言うと、席を立った」

「!」

そうだったのか…。代々の事業を手放す、財産を失うということは、死を念頭にするほどのことなのだ。それが今の姑の話を聞いて、初めてよくわかった。それまでも話は聞いてはいたが、舅があたかもふつうの転職話のように話すので、事態の重みが伝わってこなかった。こっちも若く、世間知らずだったこともある。

 

姑は依然、飾り玉をいじくっている。わたしはその玉に見入ったまま、話のつづきに耳を傾けた。

「夫は寝室の椅子に腰をかけ、震えている。わたしは彼の肩をそっと抱きしめた…。

ここ五年ほど、事業があまりうまく行っていないことは、夫の様子からなんとなく察してはいた。でも、人手に渡るなんてことは、想像もつかなかった。これから家族に起こりうる、ありとあらゆることが頭に浮かんだわ。ガクガク、からだが震えてきた…。

夫は正直で、気のいいひとだった。その点で、すでに事業家には向いてなかったのかもね。だけど事業も安泰で、財産も揺るぎないものだったから、大丈夫だと思っていたの。夫がいとも鷹揚に保証人になったり、頼まれて新しい事業に投資していると聞いても、放っておいた。そしてそれが、命取りになった…」

コトン…。

飾り玉が床に落ちた。はっとして姑の顔に目を移すと、表情が一変している。抑えてはいるが、こみ上げる感情の激流が見えるようだ。

「幸いなことに、夫の必死の努力で、家族が路頭に迷うようなことは避けられた。新しい仕事も見つかったし、ご覧のように困ってはいない。でも…。こたえたわね。夫は帝国をなくしたのよ」

口調は、最後は悲鳴に近かった。思わぬ姑の感情の吐露に、言葉の接ぎ穂が見つからない。

わたしは床に落ちた飾り玉を拾い、姑に手渡した。姑はそれを受け取ると、ふっとため息をついた。

「亡くなったおばあさんと、夫が、実の親子じゃないことは聞いているでしょう?」

「ああ、はい。なんとなく…」

舅はボローニャで生まれた。父親はロシア戦線に出征し、舅がまだ幼いうちに、戦地で亡くなったそうだ。父親の死後も、母子はボローニャで暮らしていたが、おかあさんが女手ひとつで家計を支える生活は、ご多分に洩れず、きびしいものだった。

舅は7、8才のころ、ヴェネツィアで船会社を経営し、裕福に暮らしている叔母さん夫婦に引き取られることになった。その叔母さんというのが、あの、スキアヴォーニ河岸のパラッツォの上階から、サンマルコ湾を見下ろしていたおばあさんだ。彼女は舅のおかあさんではなく、父方の叔母さんだったのだ。

「叔父さんと叔母さんには子どもがなかったから、かわいがられた。でも、当時の教育方針にしたがって、寄宿舎に入れられた。ボローニャのおかあさんが恋しくて、ひとりで夜、よく泣いたそうよ」

舅は明るいひとだったが、ときどき、ナイーブな一面が透けてみえた。姑の話を聞いて、子どものころの舅と、今の舅が、ひとつの線でつながった。

「でも、夫はがんばった。勉強もよくできて、ヴェネツィア大学の経営学部を卒業すると、会社の後継ぎとして期待され、その任をよく務めた。会社のことは時代が変わったこともあるし、彼のせいじゃない」

 

〜〜〜

 

わたしと夫に子どもができたとき、舅と姑は、それはそれは喜んでくれた。初孫で内孫、ということもあってか、とりわけ舅の盲愛ぶりは異常なほどだった。

子どもが生後六ヶ月ぐらいのときのことだ。せきが止まらないので病院に連れていこうと、急ぎ足で歩いていると、舅が追ってきて、わたしの腕から子どもをもぎ取った。そして、唖然としているわたしを置いて、病院まで走って行ってしまった。心配でたまらず、一刻も早く医者に見せたかったらしい。

また、幼稚園に通うころになると、朝、玄関を出たところで、舅が待っている。子どもの顔を見ると、舅の顔がパッと輝く。「おチビちゃん、おいで!」と腕を広げ、孫娘を抱き上げる。その様子があまりにも幸せそうなので、ああ、じゃあ、わたしのかわりにお義父さんが送っていってください、と、なるのであった。

 

そんなふうに暮らしていたからか、ほかにも孫はいるのだが、うちの子は舅にとって特別な存在だった。

ふたりは大の仲良しで、日々連れ立って散歩し、いっしょにおやつを食べる。暑い日はジェラートを買いに行き、寒い日は家のなかで本を読んでもらう。そのころの写真を見ると、子どものとなりで、舅が心底、幸せな顔で笑っている。

 

それが、夫とわたしの離婚により、離ればなれになってしまった。それも、わたしが日本という遠い国に帰ることになり、1万キロもの距離ができてしまった。舅も姑もわたしと夫の決断を受け入れてくれ、止めるようなことはなかったが、最愛の孫娘との別れは、舅の胸を、文字通り、引き裂いたにちがいない。わたしには舅の胸から流れる血が見えたし、悲鳴も聞こえた。でも、行かねばならなかった。

 

〜〜〜

 

しかし、舅のうちの子への愛は、それで止まらなかった。出不精の姑を説得し、半年後、遠距離を押して、はるばる東京まで会いに来てくれた。

広いヴェネツィアの家とは正反対の、狭いアパートだったが、なんとか工夫して泊まってもらった。十数年ぶりの日本で、新しい仕事に昼夜、忙殺されているわたしにかわって、舅と姑は娘を、近所の夏祭りやディズニーランドに連れていってくれた。

そのころわたしは、帰宅が連日、深夜におよび、疲れて、休みの日には起き上がることもできなかった。はるばる来てくれた舅と姑の相手もできず、申し訳ないが、どうしようもない。とはいえ、いったいいつまでこんな生活がつづくのか…。

苦しさと不安に押しつぶされそうになりながら、また夜遅く帰宅すると、舅がひとり、ソリタリオをしている。そういえば、長らく、舅のソリタリオを見ていなかった。

「寝られませんか?すみません、狭苦しくて…」

「大丈夫。いつものことだよ。疲れただろ?早く寝なさい」

こんな安っぽい食卓で、こんな似合わない場所で、舅がひとりカードをめくっている。それを見て、いっきに悲しみにのまれた。

なぜ、こんなにいいひとが、苦しみから逃れられないのか。なぜ、自分はこんなに無力なのか。なぜ、生きていくことはこんなにつらいのか…。

 

〜〜〜

 

舅と姑は、子どもが小学校高学年になるまで、毎年、ヴェネツィアから日本に来てくれた。

帰国して二年目、三年目になると、暮らしも少し落ち着いてきた。最初の年はブラックな職場で深夜まで働かされたが、転職してからはまともな時間に帰れるようになった。舅と姑が来てくれたときには、いっしょに晩ごはんを食べたり、休みの日には鎌倉や箱根といった場所に連れていってあげたりもできるようになった。

 

舅はわたしの同伴をとても喜んでくれた。というのも、姑が出不精なひとで、せっかく日本に来ても外出したがらないので、なかなか遠出できないでいたからだ。ときどき、ひとりでお台場に行ってモノレールに乗ったり、浅草に行ったりしていたが、つまらなかったのだろう。わたしがいっしょに行くと、生き生きといろんなものに目を留め、楽しそうに日本の印象を語った。

夕方になるとヴェネツィアでの習慣を踏襲して、アペリティフを飲もうとなった。近所の喫茶店でビールを一杯飲む程度のことだが、そんなとき、舅は心からリラックスしている様子で、それまで聞いたこともない昔話を聞かせてくれた。

「1950年代、ロンドンに留学したんだ。そのころ、イタリアの留学生たちの溜まり場になっていたパブがあってね。そこでずいぶん馬鹿をやらかしたものさ。最後は『イタリア人お断り』って張り紙が出されて、出入り禁止にされちゃったんだよ」

舅が馬鹿騒ぎをする姿など想像もつかない。が、舅にも若いときはあったのだ。昔、姑が見せてくれた、若いころの写真を思い出した。

「オランダにはよく行った。油田の仕事をしていたからね。何週間も出張することも多かった。うちの子どもたちはなぜか、オランダのにしんの燻製が好きで、よくお土産に買って帰ったな」

ヴェネツィアでいっしょに暮らしていたころは、聞かなかった話だ。あのころは家族だったから、かえって話しにくかったのかもしれない。それが他人になり、それも一年に一度しか会うことのない相手だから、気楽に話せるようになったのかもしれない。

わたしはこうして、ヴェネツィア時代には知らなかった舅の横顔を、少しずつ知っていった。

 

舅はまた、姑の出不精がますますひどくなり、困っている、と、打ち明けた。

「時間があるんだから、いっしょに海に行こうとか、ブリッジクラブに入ろうと誘うんだけど、どれもまったく興味を示さないんだ…」

確かに姑は、東京に来てもあまり外に出たがらない。姑は家にいるのが好きで、日常生活のルーティーンに生きている人だ。お気に入りのオペラだけは別だが、そのほかに積極的に出かけることはまずない。

が、舅は違った。新しいものを見たり、体験したりするのが好きだった。日本でもあっちこっち見てまわりたい、そう思っていたと思う。しかし、妻をひとりで置いていくのも気がひける。それで自分も出かけるのをがまんし、ストレスがたまっているようだった。

 

明日はイタリアに帰るという日の夕方、近所の喫茶店でいっしょにビールを飲んだ。そのとき、舅が突然、「ぼくもおチビちゃんといっしょにここで暮らしたい」と言って、涙をにじませた。

唐突なことで、言葉につまった。舅はつつしみ深いひとで、感情をあらわにするようなことはなかったからだ。が、その気持ちはわからないではなかった。舅はきっと、自分が抱えている現実から、一瞬、離れたくなったのだろう。

孫娘の笑い声の聞こえなくなった、がらんとしたヴェネツィアの家。年月を経るごと、殻に閉じこもっていく妻。離婚後、なにを考えているかわからない長男…。

家族は時に、息苦しい相手だ。運命も利害も共にするから、逃れられない。重くて、なにもかも放り出してしまいたくなることもあるだろう。

もちろん、舅は、そんなことはしない。家族思いの、立派な紳士である舅には、とてもそんなことはできない。が、少しだけ荷物をおろしたい。楽になりたい…。舅は、家族でもない、他人でもないわたしだからこそ、心情をさらけ出すことができたのだと思う。

わたしは黙ってうなずき、舅の手を握った。神さま、お願いです。どうか、舅の苦しみを取り除いてあげてください…。

 

〜〜〜

 

ヴェネツィア。真夜中。夫の実家。

パタッ、パタッ。音がする。薄暗いキッチンで、舅がひとり、カードをめくっている。闇のなか、舅のうしろ姿だけ、浮き上がって見える。

 

長いあいだ、その孤独には届かないと思っていた。深夜のソリタリオは舅の専売特許だと。大きな喪失をしたひと、子ども時代につらい思いをしたひとのものだと思っていた。

しかし、年を重ねるにつれ、自分も夜、眠れないことが増えた。また、若いころには、愛し、愛される相手がいれば孤独から逃れられる、と思っていたが、そうでもないことを知った。

熟睡できず、深夜に目が覚める。そんな夜は古傷が痛む。挫折、後悔、かなわなかった思い…。そんなときは、起きて本を読んだり、お酒を飲んだり、寝静まった住宅街を歩きまわったりしてまぎらわす。

ほかのひとは、どうしているのだろう?ゲームをやったり、音楽を聞いたり、ネットサーフィンをしたりするのだろうか。走ったり、バッティングセンターでバットを振る、なんていうひともいるかもしれない。

みんなやるのだ、なにかしら。ある程度年をとったら、だれもが、多かれ少なかれ、痛みを抱えて生きている。胸のうちの怪物を追っ払いたいのは、舅だけではない。

 

パタッ、パタッ。カードをめくる音がする。ここでも、あそこでも。

無数の悩める魂が、夜更けにひとり、ソリタリオをしている。

 

〜〜〜終わり〜〜〜

 

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UnsplashCrystal Berdionが撮影した写真, Thank you!

ABOUT ME
湊夏子
長いイタリア暮らしを経て、帰国。日英伊の3か国語でメシの種を稼ぎ、子どもを育てているシングルマム。
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