ヴェネツィア

セレニッシマの末裔

 

お世話になったのに、長年、不義理をしていた。その人が数年前に亡くなっていたことを、ふとしたことから先日知った。

ヴェネツィア貴族の、ジローラモ・マルチェッロ伯爵。地元の名士で、たくさんの人に慕われていた。詳細を知りたいとネットで過去の新聞記事を探すと、「ヴェネツィアは悼む」という記事が見つかった。ヴェネツィアの人たちに惜しまれつつ、85歳で旅立ったそうだ。

父より年上なのだから、いつそんなことがあってもおかしくない。わかっていたはずなのに、近年、きちんと連絡を入れなかった。悔いがこみ上げる。

ジローラモ。ヴェネツィアに暮らしていたとき、親切にしてくれた年上の友人…。もう会うことがかなわない。

忘れていたわけではない。いつかきっとまた会いたい。今抱えているこの課題がかたづいたら、すべて落ち着いたら…。ずっとそう思っていた。

でも、すべて落ち着く日なんて、永遠に来ない。離婚後帰国した日本で、生活に急き立てられている間に、友人は逝ってしまった。

今日はジローラモをせめて偲びたい。彼が垣間見せてくれた、古き良きヴェネツィアの片鱗だけでも、お伝えできたらと思う。

 

〜〜〜

ジローラモは、「セレニッシマ(このうえなく晴朗な)」の呼称を持つほど、強固でおだやかな統治で知られたヴェネツィア共和国の、その総督を輩出した名門貴族の当主だった。

ふつうなら、自分はそんな人と縁がない。しかし、旅行記事やイタリアについてのエッセイなどを書いていたことがきっかけで、仕事仲間のカメラマンに紹介され、以来、ときどき夕食会に呼んでもらうようになった。

ジローラモには先祖代々の領地があり、ホテルやレストランなどの経営もしていた。そのかたわら、ヴェネツィアの維持保存、活性化のための委員会、セーブベニスやベニス国際基金といった非営利団体のメンバーも務めていた。

ヴェネツィア共和国の統治者だった家に生まれたジローラモが、ヴェネツィアのことをだれよりも気にかけるのは、ごく自然ななりゆきだったのだろう。

前述の団体で中心的な役目を果たすだけでなく、ヴェネツィアに惹かれて移り住んだ外国人たちのことを、「ヴェネツィア的精神を忘れてしまったヴェネツィア人より、よほどヴェネツィアのことを理解しようとしてくれる」と、大事にしていた。研究者、芸術家、文筆家、そしてヴェネツィアの伝統的工芸や職業を継ごうと志し、弟子入りしている、といった人たちだ。

一例を挙げると、ゴンドリエーレになりたいと修行していたドイツ人女性の支援がある。ゴンドリエーレとは、ゴンドラ漕ぎのこと。それまで男ばかりの、ほぼ世襲制の仕事であったのが、ジローラモの後押しで、女性の、それも外国人のゴンドリエーレが誕生した。

ヴェネツィアについてもっと深く知りたい、ヴェネツィアについて書きたいと思っていたわたしにも、こころよく時間を割いてくれた。陽気で、気さくで、親切。そして進取の精神に富んだ人だった。

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初めてマルチェッロ邸をおとずれたときのことは、今も鮮明におぼえている。

まず、玄関が地味なのにちょっと面食らった。飾りのない堅牢な扉があるだけだ。しかし、ヴェネツィア暮らしが長くなるにつれ、それはよくあることだとわかった。ヴェネツィアでは表玄関は運河に面していることが多いので、立派な館でも陸側の入り口は目立たない。それはよくあることなのだ。

しかし、一歩中に入ると目を見張った。カナレットの絵などでしか見たことのない、フェルツェと呼ばれる覆い付きのゴンドラが置いてある。現在の観光客用のゴンドラにはない、めずらしいものだ。

自家用ゴンドラに感嘆しつつ、小さなエスカレーターでピアノ・ノービレ(主階。二階のこと)に上がる。ドアが開くと、壁一面の絵が目をうばう。豪華な饗宴の様子を描いたその絵には、仮面越しに微笑みかける美女、オウム、フルートを奏でる小人などが描かれている。無骨な玄関からはとても想像できない、色と質感の絢爛だ。

出迎えてくれたジローラモ ーマルチェッロ伯爵ー は、当時、七十ぐらいか。中肉中背で、ギョロ目とヒゲがいかめしい印象だ。しかし、それは黙っているときだけ。ほほえむと、そのギョロ目はすぐにやさしい表情に変わった。知り合ってみるとほがらかで、気取ったところのまったくない、人懐っこい人だということがわかった。

館の主階は応接用。そこと、その上階のジローラモが使っているフロアに案内してもらったが、ワンフロアだけで迷子になりそうな広さである。そして、何階だったかもう覚えていないが、古文書がぎっしりとつまった、すばらしい図書館があった。

この図書館についてジローラモが語ってくれたことは、ヴェネツィア共和国という国が、当時としては稀有な、宗教的支配から自由なプラグマティックな価値観を有していたことをよく示している。

「ヨーロッパの図書館は『Dio(神)のDで始まるが、ヴェネツィア共和国のそれは、同じDでも Diritto(法律)のDで始まる。宗教より法治を尊重していたんだ」

ジローラモの3人の子どもたちは、みんな独立して、ヴェネツィアから遠く離れた国内外で働いている。こんなすばらしいおうちがあるのに、だれも住まないなんてもったいないね、というと、

「ヴェネツィア人は昔から商売のために海外に出ていった。ここは商売を終えて、帰ってくる場所なのさ」。

 

ジローラモは料理好きで、友人たちを呼んではよく料理を作ってくれた。エンドウ豆のリゾット、あさりのスパゲティといったヴェネツィア料理を、キッチンで手際よく作ってくれる。その隣で来客たちは、ワインを飲みながら、ワイワイおしゃべり。できあがったら、キッチンのテーブルで食べる。

ダイニングルームはあるけど、フレンドリーじゃないから使わないと言っていた。確かに、遠いし、給仕が必要になる。招かれた人たちも気が張るだろう。わたしたちはジローラモが、自分の私室のようなキッチンに招いてくれる、その心遣いをうれしく受け止めていた。

夕食会はキッチンで終わることもあったが、食後、サロンに移動し、そこでコーヒーをいただくこともあった。サロンの壁は昔の饗宴を描いた絵に覆われていて、調度品も年代を感じさせるものばかり。まるでセレニッシマの時代にタイムスリップしたような気分になる。そこでジローラモはときどき、先祖たちの話をしてくれた。わたしたちはまるでおとぎ話に聞き入る子どものように、ジローラモの話に耳を傾けた。

 

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「マルチェッロ家は725年にヴェネツィアの2代目提督、テガリアーノ・マルチェッロを輩出している。一族の黄金時代はヴェネツィアのそれと重なる、14世紀から15世紀だった。

先祖にはいろんな人がいた。コロンブスがアメリカを発見する少し前に、ヴェネツィアで経済改革を行った提督、ニコロ・マルチェッロは、マルチェッリーニと呼ばれる銀貨を残した。ヤコポ・マルチェッロは提督になり、ガリポリの戦いで死んだが、マリピエロはその死体に杭を突き刺してまっすぐに立たせ、まるで総大将が生きているかのように見せて、凱旋行進した」

また、ジローラモは、ヴェネツィア貴族というのは、ヨーロッパの貴族とは概念がまるでちがうという。

「ヨーロッパの貴族は、騎士の末裔であり、商売をすることはできなかった。人民を守るかわりに土地の借用金を得、その収入で暮らしていた。ヴェネツィアの貴族というのは、まず商人であり、そして政治のプロでなければなかった。

『まずヴェネツィア人、次にキリスト教徒』というくらい、ヴェネツィア共和国の法を守ることは絶対だった。マルチェッロ家のヤコポ・アントニオは優秀な指揮者で、ヴェローナ、ガルダ、ブレーシャ、ベルガモを征服するという、いわば国家の英雄だったのに、『アッダ川を通ってはいけない』という法を侵したかどで、イストリアに流刑にされてしまった。それぐらい、法治は徹底されていたんだ」

 

1797年、ヴェネツィア共和国は崩壊したが、その後もマルチェッロ家はヴェネツィアの振興に尽くした。

たとえば、ブラーノ島のレース編み。ヴェネツィアの観光ガイドに載るような、有名な伝統工芸だが、一時はすたれてしまっていた。それをジローラモのおばあさんのアドリアーナが、産業振興のため、19世紀後半に再生させたのだという。

一族はこのように、7世紀から現代に至るまで、時代の変化に適応しながら、その時々の地元の人々の要請に答えようと努めてきた。それをジローラモが継いだ。

伯爵といっても、現代では一市民に過ぎない。もはや特権も義務もないのだが、これまでの長い慣習があるし、人々にも期待されるのであろう。ジローラモはヴェネツィアのために、なんのかんの尽くしていた。

 

〜〜〜

ジローラモに、ヴェネツィア暮らしの何がいちばん好き?と聞いてみたら、

「第一に、人間的な暮らし。第二に、その演劇性、かな」との答えが返ってきた。たとえば?と追及すると、次のようなエピソードを語ってくれた。

「なにかの会合から帰る途中だった。夜も更けてひとけのない狭い小路を歩いていると、『きさま、殺すぞ』、『てめえこそ、ぶっ殺してやる』。物騒な声が聞こえてくる。角を曲がると前方に、争っているふたりの男の姿が見えた。

厄介だなと思いつつ歩を進めると、小突き合いが始まった。それがエスカレートしてきて、ひとりが、『ああ、だれか止める奴はいないのか!おれは本当に、本当にやっちまうぞ』と絶叫した。

しかたないから、仲裁に入ろうとしたんだよ。そしたらその時、頭上のほうから、『やっちまいな、だれも見てないよ』という声が。見上げると、ひとつ半開きになっている窓のすき間に婆さんがいた。窓からおもしろおかしく見物してたんだね。

このアンチ・クライマックスには脱力したね。けんかをしていた当人たちも興ざめたのか、血を見ることには至らなかった」

また、こんな逸話も…。

「ある夏の夜のこと。寝苦しくて窓をあけたまま寝ていると、外からうめき声が聞こえる。だれか具合でも悪いのかと外をのぞくと、声は運河の向こう側から聞こえてくる。闇のなか目をこらすと、向こう岸の館のテラスに揺れる人影が、それもふたり…。

なんということはない、苦しいんじゃなくて、気持ちよくて声が出ちゃったらしい。そういえば、向こう岸の館はホテル。泊り客のカップルが、ヴェネツィアのロマンチックな夜に刺激されたんだろう。まもなくクライマックスの声が、ひときわ高らかに響き渡った。そしたらその直後、闇に包まれていた近隣のあちこちから、なんと、無数の拍手が湧きあがったんだ…笑。これが劇場でなくて、なんだろう?」

 

こんな、人と人の距離が近い、人間味のあるヴェネツィアを、ジローラモは愛していた。ヴェネツィア的精神を、ほかにはない独特な生活様式を未来に残したいと、積極的に活動していた。しかし、時代の流れはそんなことはおかまいなしに、ラグーナの生活を、そこで暮らす人々の意識を変えていく。

 

〜〜〜

日本に帰国する少し前、ジローラモとお茶を飲んだことがあった。雨の日で、帰り、ふたりして狭い小路を傘をすぼめて歩いていると、向こうから男が歩いてくる。男は傍若無人に傘を広げたまま通り過ぎようとしたので、ぶつかった。ジローラモは怒鳴った。

「おい!礼儀知らずが」

しかし男は振り返りもせず、行ってしまった。その憎々しい後ろ姿にわたしは悪態をつき、ジローラモも腹立たしそうにつぶやいた。

「傘のダンスも知らん連中がふえた」

「ん? 傘のダンスって?」

「ヴェネツィアは狭い小路ばかりだろう?だから雨の日にすれちがうときは、おたがい傘を右に、左にずらして行き交う」

ああ、それは日本でもやる。それを傘のダンスなど、チャーミングな呼び方はしないけど。

「ああいう連中がふえて、ヴェネツィアも殺伐としてしまった」

「……」

〜〜〜

日本に帰国してからも、雨の日には、よく、この「傘のダンス」を思い出した。東京でも相手のことなどおかまいなしで、傘を傾けもせずに突進してくる人がいる。そのたび、ジローラモのことを思い出した。

人々がおたがいに譲り合ったり、冗談を言い合ったりして共生できる世界。けんかしても気のきく仲裁者が身近にいて、すぐ仲直りできるような世界…。そんな世界は、当時のヴェネツィアでも消滅しつつあった。しかし、ジローラモはあきらめきれなかったのか、無意識にか、古き良きヴェネツィアを自身が体現することで、ヴェネツィアの魅力を内外に伝道していた。

 

ヴェネツィアは沈む、といわれて久しい。にもかかわらず、ヴェネツィアは沈んでいない。高潮による冠水、オーバーツーリズム、住民の流出など、数多くの問題を抱えてはいるが、まだ沈まずに生きている。ヴェネツィアが誇る歌劇場、フェニーチェの、その名、「不死鳥」のように。

ジローラモは今もきっと、天から、ヴェネツィアを見守りつづけているだろう。総督宮殿のあたり、サンマルコ広場の上空から、あのギョロ目をやさしく光らせている気がする。

 

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UnsplashGian Pietro Dragoniが撮影したカバー写真 Thank you! 

 

ABOUT ME
湊夏子
長いイタリア暮らしを経て、帰国。日英伊の3か国語でメシの種を稼ぎ、子どもを育てているシングルマム。
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