もう長いこと海に潜っていない…。
「スキューバダイビング免許取得」と書かれた看板を街で見かけ、ふと思った。ヴェネツィアに住み始めたころはずいぶん、スキューバに熱中したものなのに。
せっかく海の近くに住んでいるのだからと、リド島にスキューバ教室を見つけ、熱心に通った。免許が取れたら仲間たちと、休日ごとに沖のダイビングスポットまでくり出した。
小型のオンボロ船で行くので、船酔いがひどい。梅干しをおへそに貼ると船酔いしないというのを思い出し、神頼みのような気持ちでそうした。Tシャツをめくって仲間に見せると、みんな目を見張り、大笑い。効果のほどはさだかではなかったが、イタリア人たちの手前、よく効いていると見栄を張った。
そのころ、スキューバ教室は仲間たちのたまり場だった。教室、といっても、全然それらしくない。リド島といえば、映画祭で有名なリゾート地。ビーチには瀟洒なホテルがずらりと並んでいるのだが、それらの隙間の一隅の、木々に囲まれた小さな洞穴のような小屋。それが教室なのだった。
初めて小屋を訪ねたとき、出迎えてくれたのは、なんと白いオウム。あっけにとられていると小柄な男が出てきて、オウムがぴょんと彼の肩に乗った。男は人なつっこい笑顔で、「俺はミケーレ、こいつはマリオ」と、自分とオウムを順番に指さした。それがスキューバ教室のインストラクター、ミケーレとの出会いだった。
ミケーレはみんなの人気者だった。年は三十半ばといったところか。子どもがそのまま大人になったような自然児で、明るく、いつも冗談を言ってまわりを笑わせている。同時に、地元の海を知り尽くす熟練ダイバーでもあったから、彼を慕う生徒は多かった。ただ、教え方が直感的で、ちょっと面食らうというか、わかりづらいところがあった。そこは天の采配で、ミケーレには彼にピッタリの相棒がいた。パオロである。
パオロは女房役として、ミケーレを支えていた。パオロが理論的な講義、面倒な事務作業を受け持っているおかげで、教室が機能していたといってもいい。実戦で体得させるミケーレと、理論を上手に説明するパオロ。ふたりのコンビは好評で、教室は盛況だった。
練習が終わると小屋でパスタを茹で、トマトソースをぶっかけ、みんなでワイワイ食べる。水着や、腰にタオルを巻いたままの格好で、浮き輪や、その辺に置いてある台など、適当なところにすわって。
ミケーレはまじめなパオロをからかうのが好きだった。パオロはパオロで、そんなミケーレに痛烈な皮肉で応酬する。ミケーレがふざけてパオロのことを「パオロンチョ〜」と呼ぶと、オウムが真似して「パオロンチョ〜」と叫ぶ。パオロは怒って「焼き鳥にしてやる」と、オウムを追い払う。このドタバタに、みんな腹を抱えて笑った。今思い返すと、なにがそんなにおもしろかったんだろう?という感じだが、定番の掛け合いは松竹新喜劇のようで安心して笑えた。海から上がってきてこれを聞くと、なんかホッとするのであった。
そんなミケーレに恋人ができた。ひとまわり以上年下の、キューバ人のリタ。切れ長の、黒曜石のような瞳。ふっくらとした唇。黒い肌に、バンビの肢体。
リタが小屋を訪れると、教室の男たちがいっせいに色めいた。リタは物怖じしない、天真爛漫な子で、小屋の仲間たちともすぐうちとけた。ミケーレがリタの耳元になにかささやくと、なにがおかしいのか、いつも笑いころげている。
ミケーレとリタの仲が深まると、相棒のパオロの足が小屋から遠のいた。リタがいつも小屋にいるようになり、パオロは居づらくなったようだ。本業のホテル経営のほうに精を出し、小屋にはあまり来なくなった。ミケーレとパオロの掛け合い漫才が聞けなくなったのはさびしかったが、ミケーレがしあわせならと、仲間たちはがまんした。
そのうち秋になり、海のシーズンは終わった。リド島はリゾート地だから、10月末にはホテルもいっせいに閉めてしまう。ミケーレも小屋を閉めた。海のシーズンは終わったのだ。
秋が過ぎ、冬が過ぎ、春が過ぎて、待ちに待った夏がやってきた。仲間数人と小屋に向かうと、赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。うわさに聞いていた、ミケーレとリタの赤ん坊だろうか? 中に入ると、ふたりが赤ん坊のおしめを替えている。
「わあ、いつの間に?」
「おめでとう!」
「かわいいね、男の子?」
「名前は?」
みんなの矢継ぎ早な質問に、ミケーレとリタは「ミゲル」と答え、しあわせそうにほほえんだ。同時に、赤ん坊がいきおいよく、天井におしっこを飛ばした。まるで、俺がそのミゲルだ、と宣言するかのように。みんなびっくりして思わず顔を見合わせ、いっせいに噴き出した。
赤ん坊はすくすく育った。小屋を訪れる仲間たちに「ミゲル、ミゲル」とかわいがられ、みんなのアイドルだった。ミケーレとリタはそんな様子をうれしそうに、誇らしそうに眺めていた。仲間がオムツ替えなど手伝うと、その隙にふたりだけの世界に入り、情熱的にキスしだしたりする。目のやり場に困ったが、ふたりのしあわせはまわりにも伝染し、そのシーズン、小屋はしあわせムードに満ちていた。
翌年、また海のシーズンがやってきた。灰色の、暗くて長い冬が終わり、また船でくりだせる。海に潜れる!
ウキウキしながら小屋に向こうと、中から言い争う声がする。
「こんなの海じゃない。こんなの海といえない!」
リタだ。リタが叫んでいる。
「ほんとうの海はね、もっと青いの。太陽がきらきらして、波が白く光るのよ」
リタの声の向こうに、よく聞き取れないが、ミケーレの低い怒声も聞こえる。取り込み中のようだったので、引き返した。
こんなの海じゃないって、リドのことか。ほんとうの海って、故郷のキューバの海のことだろうか。一瞬、リタはホームシックなのかな?と思ったが、そんなことはよくあること。すぐに忘れて、その日はビーチで泳ぐだけ泳いで帰った。
しかし、それはくりかえされた。小屋を訪れるたび、ふたりの雲行きがあやしくなってきているのがわかる。不穏な空気に、みんな、居心地の悪さを感じ始めた。
そんなある日、仲間のマルコと小屋に向かうと、近くから大音量の音楽が聞こえてきた。近づくと、リタが狂ったようにひとりで踊っている。
ミゲルを抱いたミケーレが出てきて、音楽を止めろと叫んだが、リタは聞かない。怒ったミケーレがCDプレイヤーの電源を引っこ抜くと、リタは怒りに燃えるまなざしで、
「あんたたちイタリア人は楽しむことを知らない」と言い放った。軽蔑した口調で、「ここの生活には、音楽も、踊りもない」と。
「大丈夫かな…」と、わたし。「心配だね…」と、マルコ。顔を見合わせたが、わたしたちが首をつっこむことでもない。
「でも、イタリア人は楽しむことを知らないって、どういうことかな?音楽や踊りがないって…」
ふしぎに思って、マルコに聞いた。日本人のわたしからしたら、イタリア人は十分、楽しむことを知っているように見えるのに。
マルコはちょっと困った顔をして、「リタがそうだというんじゃないけど…」と前置きをして、次のように説明してくれた。
「聞いたことない?これ、わりとあることなんだ。イタリア人と結婚してキューバからイタリアに来た女性が、現実に幻滅して別れてしまうのは…」
「そうなの?」
わたしが知り合ったキューバ人はリタひとりで、そんな話は初耳だった。
「イタリア人は太陽があって、きれいなビーチがあるところが好きだろ?だからバカンス先として、キューバは人気なんだよね。同じラテン気質ってこともあるし、イタリア男がキューバの女性といい仲になることは多いんだ。それで、彼女をイタリアに呼び寄せる。でも、バカンス先では気前よくふるまい、たのもしく見えた男が、イタリアに戻ると働かなきゃ食えないふつうの庶民だってことが、日に日に見えてくる。特にヴェネツィアなんかは、冬は寒いし、じめじめして暗いだろ?陰鬱な気候に滅入って、帰っちゃったり、ほかに行っちゃったりするキューバ人は多いんだよ」
「そうなんだ…。でも、キューバじゃそんな、歌ったり、踊ったりして過ごせるの?イタリアより余裕がある国なの?」
「いや、 共産主義の国だろ?所得はイタリアに比べて断然低いよ。豊かな暮らしを求めて、外国に移住したがるキューバ人も多い。でも、資本主義のせかせかした社会とちがって、独特の、ゆったりしたリズムがあるんだって。キャッシュはなくても、きれいな海と青い空があって、音楽や踊りが生活のなかに息づいている。そう、聞いてる」
「…。いいとこのようね」
「…。そうだね。お金はなくても、あくせくしないで、歌ったり踊ったりして過ごせるのかもしれないね」
その後、リタの姿を見かけないなと思っていたら、パオロが顔を出すようになった。リタがいる間、影が薄かったのが、前のように現れるようになった。気がつくと、またいつのまにか、小屋の前の木陰で理論の講座をやり、帳簿をつけたりしている。
そうしてまじめに働いているパオロを、また、ミケーレがからかう。
「あ〜あ、頼んでねえのに来やがる。ほかに行くとかないのかよ」
「あいかわらず可愛げのねえ野郎だな。困ってんだろ」
「あ〜あ、またおめえといっしょかよ」
「しょうがねえだろ。あきらめな」
小屋に、ふたりの掛け合い漫才が戻ってきた。
結局、その夏が、わたしが熱心にリド島に通った最後のシーズンになった。しばらくして、仕事が忙しくなったり、子どもが生まれたりで、スキューバから遠ざかってしまったのだ。
何年か経ってから、風のうわさで、ミケーレとリタが別れたと聞いた。彼らの幸福の絶頂期を見てきただけに、残念だな、と思ったが、すでにその予兆はあった。やはりそういうことになったか、という感じで、もはやおどろきはしなかった。
子どもも歩けるようになり、いいシッターさんも見つかり、ちょっと落ち着いたその年、久しぶりに、スキューバ教室に足を運んだ。
ミケーレは大歓迎してくれ、週末は潜りに行こう。またあのオンボロ船で行くから、ヘソに梅干しを貼っておけよ、と笑った。あはは、わかった。ミケーレの分も持っていってあげるね。わたしたちは軽口をたたいて、再会を喜び合った。
ちょっと間をおいて、「リタは元気? ミゲルは大きくなったでしょうね?」と聞くと、ミケーレはちょっと口をつぐみ、「聞いてるだろ? リタとは別れた」とつぶやいた。
「…。うわさはほんとうだったんだね。ミゲルは?」
「交代で面倒を見てる。どちらかというと俺のほうが多いけど」
「そう。リタは? 元気なの?」
「うん、まあ。キューバ人の女友だちといっしょに住んでるから、安心だ」
「あなたは?」
そう聞くと、ミケーレは肩をすくめた。
「いがみあうよりは、別れるほうがましさね」
本音なのか、強がりなのか、わからなかった。
帰り道、あの夏の終わりに漏れ聞いたリタの叫び声を、ふと思い出した。
「こんなの海じゃない。ほんとうの海はね、もっと青いの。太陽がきらきらして、波が白く光るのよ…」
恋人同士になって、心もからだもひとつになって、同じ風景を見ていると思う。でも、ほんとうにそうかはわからない。同じリドの海を前にしても、リタの目は、キューバの海を見ていたかもしれない。人と人とは、かくも近く、かくも遠い存在なのだ。同郷人同士だって、例外ではない。
恋は始まり、そして終わる。でも、人生はつづく。それぞれがそれぞれの航路を、なんとか舵をとりながら、前に進めていくしかない。
風の便りでは、ミケーレも、パオロも、元気にやっているらしい。ミゲルもハンサムな青年に育ったと聞いた。
リタのうわさは入ってこない。でも、別に悪い話も聞かないから、元気にしているのだと思う。まだヴェネツィアにいるのだろうか。
そういえば、あの白いオウムはどうしただろう。
オウムを肩に乗せたミケーレが、ビーチを行く。オウムが「パオロンチョー」と鳴き、パオロが怒る。昔、くりかえし目にした光景を、久々に思い出した。そしたら昔みたいに、たいしておかしくもないのに、やっぱりまた笑ってしまった。
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