今日からヴェネツィアのカーニバルが始まる。サンマルコ広場は仮装した人々であふれ、コリアンドリと呼ばれる、色とりどりの紙吹雪が空を舞う。街はこの期間、百花繚乱の衣装と音楽にいろどられ、しばらく熱に浮かされる。
冗談みたいだけど、元夫とわたしはカーニバルで出会った。フィレンツェに遊学中、女友だちと、ヴェネツィアのカーニバルを観に行こうと出かけたときのことだった。浮かれはしゃぐ人の群れに押されながら、迷宮のような街を練り歩く。ひと休みしようと小さなワインバーに入ったら、前に来たときに顔見知りになった人と偶然、また会った。そのうしろに元夫がいたのである。
紹介されて立ち話をするうち、夜はディナーに行こうとなり、友人もいっしょに四人でレストランに行った。会ったばかりでたいした話はしなかったと思うが、ひとつだけ鮮明におぼえている。彼はチャールズ・ブコウスキーの「町でいちばんの美女」が好きだといったのだ。
ブコウスキー。そんな毀誉褒貶の激しい、カルト作家の本が好きだというのか。この短編が好きだったわたしは驚いた。日本でもブコウスキーを読んでいる人などまわりにいなかったから、ヴェネツィアで初対面の人が、そんな書名を口にしたことが信じられなかった。
向こうはなんでわたしを誘ったんだろう。その日、わたしと友だちは、広場の絵師に顔の半分を仮面のように描いてもらっていた。だからどんな顔かよくわからなかったはずなのに(笑)。
なんとなく盛り上がって、その晩はフィレンツェには帰らなかった。駅まで女友だちを見送ると、朝まで彼と歩きまわった。闇に白く浮かぶ総督宮殿、黄金に輝くサンマルコ寺院、きらきらと光る大運河…。ヴェネツィアの夜はうつくしかった。真夜中を過ぎても街は人でいっぱいで、お祭りの熱に包まれていた。

「きらびやかだね、すごい…」とわたしが感嘆すると、彼はちょっと皮肉な顔で異を唱えた。
「むかしはこんな商業的じゃなかった。ヴェネツィアっ子が主役の、地元の祭りだったんだ。衣装なんか、お古を切ったり貼ったりの手作りさ」
「! そうだったんだ…」
「仲間連中とふざけた仮装でサンマルコ広場に集まった。で、その場のノリで歌ったり、踊ったり。盛り上がるうち、広場が巨大なディスコになった」
「自然発生的なものだったんだね」
「旅行会社や観光局が金のためにやる、お仕着せの、お膳立てされたものじゃあなかった」
「…」
観光客のわたしが感動して見ているこの光景は、ヴェネツィアっ子からしてみれば片腹痛い、そんな光景なのであるらしかった。

夜も明けるころになって、朝イチの電車で帰ろうとすると、彼が自分のうちに泊まっていけという。それは無理、と断ったら、実家に住んでいるから心配しないで。ひと眠りしたら親と妹といっしょにご飯を食べようという。ふーむ、ほんとうかな?楽しかったけど、そんなこと真に受けてよいものか。悪いやつだったらどうしよう…。いろいろ頭をよぎったが、ひと晩歩きまわったあとでもうクタクタ、頭がもうろうとしている。疲れと眠さに引きずられ、強く勧められるまま、わたしは彼の家に行ったのである。
(その話を大学生の娘にすると「軽い」とあきれられた。ん、ま、そうかな。「良い子は真似をしてはいけません」というと、「よくいうよ」…)
泥のように眠った。で、翌朝。
彼に案内されるまま、ダイニングルームらしき部屋についていくと、彼の両親、妹、そのボーイフレンドが、いっせいに目をまるくした。
「あ、その、すみません、突然おじゃまして…」
気まずいのとはずかしいのとで、もう、しどろもどろ。穴があったら入りたい…。そんなわたしにおかまいなしに、彼はうれしそうにわたしを家族に紹介した。みんな、まだ目をまるくしたままだが、それでも行儀よく、「チャオ、よろしく」、「チャオ、いらっしゃい」とあいさつをしてくれる。「はじめまして…」と、わたしもなんとか声をしぼりだしたが、決まりが悪くて目もあげられない。
アイスブレーキングしてくれたのは、彼のおかあさんだった。
「朝起きたらテーブルのうえに、『女友だちが泊まる』って息子のメモが置いてあってびっくり。そんなこと初めてだから」
続いておとうさんが、
「しかし、まさか、日本のひととは…」
苦笑するしかないわたし。
「まあ、すわって。ごはんを食べて」
彼のとなりにすわらせてもらい、食卓に加わった。なにを食べたかはまったく記憶にないが、陽当たりのいい、暖かいダイニングルームに、いい匂いがただよっていたのはよくおぼえている。くつろいだ雰囲気のなか、わたしの緊張も徐々にとけ、なごやかな会話になった。
仕事で日本に行ったことがある、というおとうさんは、「新幹線はほんとうに速かった」とか、「日本では握手じゃなくてお辞儀をするんだね」など、話のきっかけを作ってくれた。おかあさんは、これも食べなさい、あれもどうぞ、と、料理をすすめてくれる。妹とボーイフレンドもフレンドリーで、みんなで東洋からの闖入者をあたたかく迎えてくれた。肝心の彼はあまり話さず、そんな様子をニコニコと見守っている。
あとで、彼の部屋の本棚に、ブコウスキーの「町でいちばんの美女」が置いてあるのを見た。うそじゃなかったんだ…。本好きのわたしは安心した。それが、彼とつきあうきっかけになった。

しかし、結婚後、元夫はぜんぜん読書家などではないことがわかった。読むのはDylan Dogなど、マンガぐらい。そんな彼が、なぜブコウスキーの本なんか持っていたのか。ブコウスキーが好きだなんて、初対面のわたしに言ったのか。いまだに謎だ。ブコウスキーのあの作品がわたしの好きな本のひとつであることなど、彼には知る由もなかったのに。
のちになって、その話をヴェネツィアっ子の友人にしたら、
「Venezia e’ magica, specialmente alla sera di Carnevale. ヴェネツィアには魔法のような魅力があるからね。特にカーニバルの夜には」と笑った。そうなのかもしれない。わたしはきっと魔法にかけられたんだろう。ヴェネツィアに。カーニバルの夜に。そしてブコウスキーにだまされた。
まあ、いいか。そんな悪い魔法でもなかった。思いもよらない、かけがえのない出会いと日々をくれた。
今年のカーニバルでも、いくつもの出会いが生まれるのだろう。魔法にかかるひとも出てくるだろう。ヴェネツィアに魅入られたら、運命にしたがうしかない。
そしたら、Buona fortuna。幸運を祈る。
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