イタリア人的考え方

みんなディーバ

 

イタリアから来日したオーケストラのお世話をした、という女性の話を聞いたことがある。みんな個性豊かなので、まとめるのが大変だったとか。ハハ、さもありなん。

エスプレッソやカプチーノなど、イタリア式コーヒーを提供するカフェに入ったはいいが、コーヒーの好みはひとりひとりちがう。

ぼくはristretto 濃いやつ。わたしはlungo 水多めで。こっちはmacchiatoミルクを一滴だけ垂らして。わたしはdecaffeinato con latte カフェイン抜きのコーヒーをミルク入りで。わたしはcon latte freddoミルクは温めないで、冷たいのを入れてね。ぼくはcorrettoグラッパ入り、あ、ない?わしはcon latte abbondante senza zucchero カフェラッテ、ミルクはたっぷりね。糖尿病だから砂糖はいらん…。

聞いているだけで目がまわる。

こういうとき日本人なら、自分ひとりじゃないのだし、アテンドの彼女がオーダーしやすいよう、細かい注文はひかえそうなものだ。しかし、イタリア人の音楽家たちは自分の好みのコーヒーをゲットするのに夢中で、そんなことは頭に浮かばなかったらしい。

同じような話が身近にもあった。だれかの誕生日に、イタリア人と日本人の同僚たちとランチに行ったときのことだ。

忙しい仕事の合間を縫っての昼休みだから、手っ取り早くランチセットですまそうという暗黙の合意があった。それが、ひとりのイタリア人が「わたしはスープ、それからエビチリ…」とアラカルトで頼み始めた。

日本人の先輩が「今日は誕生日の〇〇さんの分をみんなで割り勘にするんだから、あなたも定食からえらんだら?」と口をはさんだら、イタリア人が怒り出した。「なにを頼もうとわたしの自由でしょ」「そうだけど、今日はみんなで割るから––」「自分の分は自分で払うわよ、それでいいでしょ」押し切られ、日本人の先輩は肩をすくめて黙ってしまった。

こういうTPOの読めないひと、自分のことしか見えていないひとは、日本だったらひんしゅくを買う。イタリアでもそういうことがないわけではないが、日本のような集団行動の決まりがないので、たいていはまわりのことなどあまり気にせず、それぞれ好き勝手やっている。いわば、みんなディーバ(主役)なのだ。

みんながみんな、自分が世界の中心だと思っていれば、当然、まわりと利害の不一致、摩擦が生まれる。頻繁に揉め、言い争いが起こる。孤立もする。しかし、おもしろいのは、それをあまり意に介さないところだ。和が重んじられる日本とちがい、イタリアはそもそもみんなバラバラ、混沌がデフォルトなので、気にならないのかもしれない。けんかになってもしかたない、自分はこれが好きだし、こうしたいんだから…という感じなのだ。

こういうディーバちゃんたちといっしょに仕事するのはとても疲れる。めんどうくさいし、割りを食わされることもしょっちゅうだ。しかし、感心もする。うつくしいとか、ずば抜けて頭がいいとかいうわけでもないふつうのひとが、あたりまえのようにわがままを主張できる。それが死ぬほどうらやましい。

わたしだって幼いころはわがままだった。おもちゃはほかの子には貸してあげないし、好きなものしか食べない。ままごとでは、主役のリカちゃん役はほかの子にゆずらない。でも、そんなわがままは、日本ではしつけや学校教育で矯正される。

食べ物の好ききらいは幼稚園で直された。給食をぜんぶ食べるまで外で遊ばせてもらえず、ひとり教室に残され、しかたなく目をつぶって飲みこんだ。小中学校でも、ほかのひとに迷惑をかけないようにとくり返しいわれる。

そんなふうに育てられるうち、なんでも食べられるようになり、わきまえを知るおとなになった。健康に育ち、集団生活で困ることはなかった。だけど、そんな雑食の人間になったことが、ちょっとさびしくもある。

それに、日本人相手ならいいが、外国人相手だと、自己主張が強くないと損することが多い。海外生活の長い友人もぼやいていた。日本の学校でまわりと協調することを教え込まれたせいで、忖度しない外国人とやりあうとき不利になると…。

それは、だれでも休みたい年末年始にどっちが休みをとるかといった卑近な争いから、昇給や賃上げの交渉に至るまで、あらゆる生活の面に響いてくる。

この友人も、もともとはおっとりした大和撫子だった。それがヨーロッパでサバイブするため、無理して、自己改造の努力をして、権利を主張し続けなければならなかった。とはいっても、環境や、太古の昔からつづく文化的遺伝子は、個人の努力などはるかに凌駕している。「なんか、戦うの、もう疲れちゃった」。世界を股にかけて仕事してきたツワモノの彼女でさえ、そうこぼす。

わたしもなんだかんだいって、異文化とかかわって40年超だ。それでもちっとも楽にならない。先日も職場でくだらないことで揉め、すっかり人間嫌いになった。いっそ恥知らずな人間に生まれ変わりたい、それぐらい悩んでいたら、ひとりのイタリア人の同僚の女性が声をかけてくれた。

「そんなこと思わないで。あなたはあなたらしくあればそれでいい」と。

彼女は敬虔なクリスチャンで、日本とイタリアの両方で教育を受けたひとである。クリスチャンだからそういう発想になるのか、彼女自身も文化的はざまで苦労してきたからなのか、わからないが、少しなぐさめられた。そう、たぶんそれしかないのだ。どうせちがう人間にはなれないのだから、このままの自分で外界と向き合うしかない。

ディーバになれない、そんなふうに育てた日本の土壌、文化を、ときどきうらめしく思う。だけど、やはり、愛し、誇りに思っている。

ディーバちゃんたちとの日々の小競り合いに負けたくないからといって、自分を不自然に変えようとしたりするのはやめよう。相手の土俵に降りていってはいけないのだ。わたしはわたし。むずかしいけど、負けてもさわやかに胸を張れるようでいたいものだ。

 

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WestfaleによるPixabayからの画像 Thank you!

ABOUT ME
湊夏子
長いイタリア暮らしを経て、帰国。日英伊の3か国語でメシの種を稼ぎ、子どもを育てているシングルマム。
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