うちの子が中学受験のとき、ほぼ毎日、塾で9時頃まで勉強していた。電話をかけてきたイタリア人の義理の姉にそのことを話すと、「ええっ、学校終わってからまだ別の学校に行くの?」とびっくりされた。イタリアには塾も受験もないから、子どもがそんな夜遅くまで外で勉強しているのに驚いたのだ。日本では珍しいことではなく、子どももそれなりに楽しく通っていると説明すると、義姉は信じがたいといった口調で、「日本人はそうかもしれないけど、〇〇ちゃん(うちの子)は半分、イタリア人よ。イタリア人の、西洋人の子どもはそんながんばれないよ」と、日伊ハーフの姪っ子を憐れんだ。
この話はその後、子どもが中学、高校に進んでからも、「試験前なのに眠くて寝ちゃった。でも仕方ないよね。半分イタリア人だから(笑)」と親子の間で冗談の種になった。だが、もちろん、イタリア人ががんばれないなんてことはない。イタリア人はがんばる時はがんばれる人たちだ。ただ、日本人が何かに立ち向かう時、どんなに苦しくても精神力で乗り越えようとする傾向、文化的刷り込みがあるのに対し、イタリア人はもっと現実的な考え方をする。「押してダメなら仕方ない」と、わりとあっさりしている。個人主義だからか、子どもの性格や好き嫌いも、修正するというのではなく、ひとつの個性として尊重する傾向がある。義姉も子どもに勉強するよう言い聞かせてはいたが、それでもやりたがらなければ、それ以上は強いなかった。成績が悪くてもあまりジタバタせず、この子はこんな子と受け入れていた。
私はそれを見ていて、もったいない、と感じたものだ。もうちょっとやる気を起こさせるよう、工夫したり、導いてあげれば、もっと可能性が開けるかもしれないのに…と。でも、最近、義姉のやり方、イタリアのやり方は悪くない。いや、むしろいいと思うようになった。義姉の子はやんちゃで手に負えず、勉強も大嫌いだが、実に生き生きしているのだ。日本に来た時もちっとも怖じけず、レストランでも大人顔負けに主張し、周りは大変だったけど、本人はしっかり楽しんでいた。その子その子の生来の性分や素質を尊重し、あまり親が手を出さないから、子どもが型にはまっておらず、個性豊かなんだと思う。イタリアでは勉強ができない子も、はみ出し者でも、大人になっても覇気があって、それなりに楽しそうにやっている。自己肯定感の低さに悩む昨今の日本の若者や大人と大違いだ。
もちろん、単純に比較はできない。イタリアで親が子どもの勉強や成績に日本ほど熱中しないのは、伝統的に、学歴よりコネや階級が物を言う社会だからという側面もある。一方、日本はまだまだ学歴社会だ。私自身、イタリアに長く暮らし、義姉の子育てを見てきたにもかかわらず、日本では受験に振り回された。子どもの可能性を広げてあげたいという思いから、できるならいい環境で学習させたいと、子どもの自発的な声を聞く前に、あるべき姿、あるべき方向に誘導してしまったかもしれないと思う。
子どものやる気にしたって、操作しはしなかったか?新聞や教育雑誌、ウェブには、子どものやる気を引き出すための工夫が山と紹介されている。私もそれを熱心に読んだ口だが、その子がやる気を出すのを待たないで、親が工夫をして子どもにやる気を出させるのは、長い目で見て本当にいいことだったのか。
子育てもほぼ終わった今頃になって、もっとゆったりと、子どもの自発的な自主性に任せて育ててあげられればよかったなあと思う。でもまあ、too lateということもないだろう。子どもとのつきあいはまだまだ一生続く。新しく得た視線をこれからの関係に生かせればいいかな?
「イタリア人の子どもはそんなに勉強がんばれない」と言っていた義姉は、うちの子が大学に合格した際、「えらかったね〜、よくやった!」と喜んでくれた。娘が「Zia(おばさん)、昔、私がイタリア人だから勉強がんばれないって言ってたでしょう」というと、義姉は「ええ〜、そんなこと言ったっけ?」と笑い転げた。
最後までありがとうございました。ブログランキングに参加していますのでよかったら応援お願いします。