イタリアのことわざ・気になる表現

セネカ 人生の短さについて

 

年を取ることで失った最大のものはなんだろう。ぴちぴちの肌、シャープな頭、徹夜で遊んでも尽きない体力……。考えていて、ふと、spensieratoというイタリア語が頭に浮かんだ。

spensieratoとは、なんにも考えていない、能天気、苦労知らずという意味の形容詞。

たとえば、ティーンエイジャーたちが海辺でたむろってバカ騒ぎをしている。箸が転んでも笑い、親に説教されてもどこ吹く風。そんな様子をさしていう。

イタリアでは、親たちはそんな子らに対し、概して寛大だった。「Spensieratoでいられる時間は長くない。今は自由にさせてやろう」と。

たしかに、自分のときを思い返しても、そんな日々は一瞬だった。気づいたら終わっていて、あっというまに人生の本番に送り出されていた。

 

先進国では、人生百年時代に入った。日本とイタリアはなかでも最長寿国だ。でも、それで持ち時間が長くなったとは一概に言えない。五十歳、六十歳の活力が、八十歳、九十歳で持ちつづけられるわけではない。運がよければ可能かもしれないが、明日、自分がどうなっているかは、神のみぞ知るだ。

 

そんなことを思うようになったきっかけは、一年ちょっと前、コロナにかかったときだった。軽症で、熱もすぐに下がったにもかかわらず、倦怠感がとれない。なんとなくだるく、なにもする気になれない。

えっ?これはどういうこと?まさか、後遺症のアレ?思考力や集中力が低下する、ブレインフォグとかいうやつ?

言うに言われぬ恐怖にとらわれた。やろうとしていたこと、やりたいと思っていたことがあったのに、そしてそれにようやく着手できたかのように思えたのに、もしかして、これで終わり?こんなにあっけなく、幕切れが来てしまうのか。

さいわい、倦怠感は長くはつづかなかった。何日かすると、またいつもの調子がもどってきた。よかった、助かった。神さま、感謝します……。

今回はとりあえず見逃してもらえたようだ。が、以来、ときどき意識するようになった。活力が奪われる日、自分自身を制御できなくなる日、それは突然やってくるかもしれないと。

 

そんなとき、本屋で目についたのが、セネカの「人生の短さについて」(光文社古典新訳文庫。中澤務 訳。ちなみにイタリア語のタイトルは『La brevita’ della vita』)


人生の短さについて 他2篇 (光文社古典新訳文庫)

 

有名な古典である本書は、今から二千年以上も前に書かれた本。著者のセネカは古代ローマの哲学者で、政治家。カリグラ、ネロといった悪名高い皇帝たちが支配するローマ帝国初期の時代を生きた。

セネカはその弁論の才能で、元老院議員として存在感を示すが、それを妬んだカリグラに処刑されそうになる。カリグラの死後は、権力争いの陰謀・画策に巻き込まれ、8年もコルシカ島に島流し。その後、再びローマに呼び戻され、ネロの教育係、補佐として政治の安定に尽くすが、ネロの異常さを制御できなくなり、辞職。隠遁生活のなかで精力的に執筆するが、ネロ暗殺の陰謀に加担した嫌疑で自殺を命じられ、自らの命を絶ったという、波乱万丈の運命の人。

もともと哲学の道に進みたかったのに、父に許されず、政治の道に進んだセネカ。政治の世界でも重役を担い、活躍するが、ストア派という、理性を重んじ、確固たる自己の確立をめざした哲学の信奉者であった彼は、暴君の皇帝たちにふりまわされる日々を耐えがたく感じていたのではないか。

本書はローマ帝国の多忙な重職についている知人宛てに、引退して時間的余裕のある生活を勧めるというかたちで綴られているのだが、当書においてセネカは、バタバタ仕事に追われたり、地位や名誉にしがみつく生き方を、自覚もないまま他者に使いつぶされる人生だと、辛辣に批判している。

例を一部抜粋すると、

「人生の残りかすを自分のために取っておき、善き精神的活動のために、もうなんの仕事もできなくなった時間しかあてがわないなんて、恥ずかしいとは思わないのか」

(人々はありとあらゆる権利を主張するのに余念がないにもかかわらず)
「自分自身を所有する権利を主張する者は、だれもいない。だれもが、ほかのだれかのために、使いつぶされているのだ」

「おまえときたら、自己に目を向けようとしたこともなければ、自己の声に耳を傾けようとしたこともない。(中略)おまえは自己とともにあることに耐えられなかった」

「先延ばしは、人生の最大の損失なのだ。(中略)それは、未来を担保にして、今このときを奪い取るのだ。(中略)あなたは、運命の手の中にあるものを計画し、自分の手の中にあるものを取り逃がしてしまう。あなたは、どこを見ているのか。あなたは、どこを目指しているのか。これからやってくることは、みな不確かではないか。今すぐ生きなさい」

と、手厳しいことこの上ない。が、これらはセネカ自身が政争の渦中で苦しみながら発した、心の叫びだったのかもしれない、とも思った。

セネカは、人生は実は短くない、と説く。

Non è vero che abbiamo poco tempo: la verità è che ne perdiamo molto

人間が時間を浪費し、人生を短くしてしまっているだけだと。他者や仕事にふりまわされず、自分自身と向き合うようにすれば、自分にとって本当に大事なことを優先させるのであれば、時間は十分にあると。時間こそもっとも貴重なものであるとし、時間の使い方に自覚的であれと主張する。

たしかにわれわれの生活は雑事にふりまわされることが多い。自分自身と向き合う時間などなかなかない。とはいえ、糊口をしのぐためには、くだらない雑用もこなさねばならぬ。セネカ先生、それを排除しては生活が成り立たないのですが……。

しかし、よく考えてみると、必死で用事をこなすうち、目的と手段をとりちがえてしまっていることも多い。自分がよりよく生きるために働いているはずだったのが、いつしか業務をこなすことで頭がいっぱいになり、本来の目的を見失ってしまっている。自分の人生の主人であったはずの自分が、いつのまにか奴隷になっていて、そもそもの目的——自分のためになることをする—ことを失念してしまっている。

あわただしい生活のなかでも、いや、だからこそ余計、意識して自身と向き合う時間をつくることは大事——。セネカの主張を、自分はそのように受け取った。

 

それにしても、この本、高校のころに一度、読んだかもしれない。うろ覚えなのは、あまり心に響かなかったからだろう。若いときには「人生の短さ」なんてピンと来ない。自分はまさに、セネカが本のなかでこきおろしている、自覚なしに時を浪費しているうっかり組のひとりであった。時間についてあまり深く考えることのないまま、今まで来てしまった……。

どうしよう? いい年してspensieratoな日々をなつかしがっている場合じゃない。もうとっくに手遅れだけど、それでもここから始めるしかない——。

自分にとって一番大事なことはなんなのか。にわか時間の使い方を見直し、計画など立ててみる。が、しょせん凡人、なかなか計画通りには行かない。

また、年のせいか、集中する時間と同じぐらいダウンタイムを要する。家事に逃げたり、ぼんやりテレビを見たり、そんな時間もないと集中もつづかない。

う〜ん。「鉄は熱いうちに打て」とは、よくいったものだ。タイミングをのがすと、同じことをやるにも倍の時間とエネルギーを要する。

それでもまあ、思い立ったら吉日だ。セネカ先生に手厳しく言われて刺激になった。

明日は不確かだ。今、すぐ、生きなければ——。

 

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UnsplashPriscilla Du Preez 🇨🇦が撮影した写真 Thank you!

ABOUT ME
湊夏子
長いイタリア暮らしを経て、帰国。日英伊の3か国語でメシの種を稼ぎ、子どもを育てているシングルマム。
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