ピンポ〜ン!呼び鈴が鳴るとため息をついていた時期があった。誰かはわかっている。姑だ。
イタリアで結婚していたころ、夫の両親と二世帯住宅で暮らしていた。もともと彼らの家だったところを半分に分けて二つのアパートメントにしたので、敷居は低い。ご飯を食べにおいで、息子の好物を作った、孫の顔を見せて、と、しばしばピンポ~ンが鳴るのだが、それが当時のわたしには悩みの種だった。
特に姑の厚意が重かった。「これ、息子が好きだから食べさせてあげて」、「洗濯物を取り込んでおいたわよ」(一階の共有部分にパントリーがあった)、「子どもを散歩に連れていってあげる。あなたは仕事で忙しいでしょう?」などなど。いえ、大丈夫です、と、遠回しに断ってもそれは耳に入らない。「Dai, dai (ほらほら遠慮しないで)」って感じで押し切られてしまう。何度断っても押し切られ、ある日、我慢の尾が切れた。ささいなことで言い合いになり、追い詰められ、わたしはなんと、こう言い放ったのだ。
「このドアからこっちは別世帯です。今後は立ち入らないでください」
賽は投げられた。
当然ながら、姑は気を悪くした。それからしばらく「ピンポ〜ン」は聞こえなくなったが、かわりに不穏な空気がただよった。
姑がきらいなんじゃない。世話を焼くのは愛情からであり、大事にしてくれているのだということはわかっている。でも、こっちももう子どもじゃない。いい年したおとななのだ。自分の時間と空間が必要だし、自分の家のことはたとえ不出来でも自分たちでやりたい。それを理解してもらいたかったのだが、むずかしかった。遠回しに言葉を尽くしたつもりだったが、うまく伝わらなかったのは、単なる遠慮ととられたのかもしれなかった。
姑は嫁から締め出しをくらい、さぞショックだったろう。わたしだってそんなことはしたくなかった。でも、いくら言ってもわかってもらえず、図らずしてハードな結界の引き方になってしまった。
義父母の家の閉じた扉を見て、気持ちが沈んだ。姑はさぞ怒っているだろう。舅はわたしをかわいがってくれていたので、妻と嫁のはざまに立って悩んでいるにちがいない…。仲が良かった義理の姉からも責められた。「扉を閉めるなんて友だちにだってしない」と。泣きそうになった。好きで扉を閉めたわけじゃない。そうせざるを得ないよう追い詰められたんだ。説明しようとしたけど、義姉はぷいっと向こうに行ってしまった。
こういう場合、肝心の夫に間に入って状況を救ってもらいたいところなのだが、彼にそんな技量はない。そもそも発端は、夫が母親をめんどくさがる点にあるのだ。夫がちゃんと母親のいうことを聞いてあげないから、やさしく接してあげないから、お義母さんはわたしのほうにやってきちゃうのだから。
家と家が離れていれば、たとえ関係が悪くなってもさほど気にならないだろう。しかし、一階の入り口が同じの二世帯住宅では、いやでも顔を合わせる。気まずいどころではない。
何日かたって、「ちょっと話そうか」と、舅から声がかかった。舅とわたしとは最初から馬が合った。わたしは舅の誠実で高潔な人柄を慕っていたし、舅もわたしのことをなぜか買ってくれていた。
「わかりました」
いつもより緊張しながら舅といっしょに歩き、近くのカフェに行った。コーヒーを頼むと、舅はおだやかに切り出した。
「このままだとイスラエルとパレスチナだね」
わたしはため息をついて舅の顔を見た。
「…あやまれ、とおっしゃるんですか?わたしは悪くないです。何度言っても聞いてもらえなかったから、しかたなかったんです」
「わかってる。妻はああいう性格だしね。でも、争いをおさめるにはどちらかが折れないと。そういう場合、日本でも、年配者より年下の者から折れるのではないかな?」
「….やっぱりわたしにあやまれと?」
「あやまれとは言ってない。だけど多少折れて、この場をおさめることはできないかな?そうしないときみは孤立してしまう。それはきみにとって不利益だ。この国で生きていくにあたって、娘(わたしの義理の姉)だって味方につけておいて決して損にはならないからね」
「それはそうですけど…でも、わたしから折れるのはイヤです。たまにはお義母さんから折れてくださってもいいじゃないですか」
「妻にそんなことができるならきみに頼んでないよ。解決のカードを持っているのはきみだけなんだ」
「……」
自分から折れるのはイヤ、でもこの膠着状態が続くのも耐えられない……。悩んだ末、わたしは姑に手紙を書いた。自分の言ったことを謝りはしなかったが、はからずも気を悪くさせたことは遺憾である、といった内容の(苦笑)。とりあえず歩み寄りの姿勢は見せたわけだ。
すると向こうも、まあ話しましょうということになった。わたしと姑は向かい合った。わたしは自分のプライバシーは尊重してほしい、厚意はありがたいが自分たちの力だけでやりたいので見守ってほしいと繰り返した。姑は、ああもちろんよ、そんなことはわかってる。でも、あなたもわたしのことを理解してくれなくちゃ。わたしはあなたたちにいろいろしてあげたいだけなの。他意はないのよ。……わかりました。
そんな感じで、なんとなく、なし崩し的に和解となった。
で、その後どうなったか。姑のピンポ〜ンはなくなった?なにも変わらなかった?
正解はその中間。しばらくは姑も遠慮していたものの、時間が経つうちにピンポ〜ンは戻ってきた。でも、その頻度は前より多少減った。おたがいに、少しは歩み寄れたのだ。さらに後日、義理の姉はあやまってくれた。事情も知らず、一方的にあなたを責めて悪かったと。フェアで、いかにもこの人らしかった。
こうして義父母とは何年も隣同士、かなり親しく暮らした。ときには意見の相違でぶつかることもあったが、それはもう事件ではなくなっていた。
〜 〜 〜
でも、人生とはわからないものだ。義父母とうまく行くようになったら、今度は夫と離婚することになり、子どもを連れて日本に帰国することになった。
おたがいに納得した決断だったが、わたしは義父母がどんな反応をするかこわかった。イタリアではこういうとき泥仕合になるのがふつうだ。外国人の嫁などに、やすやすと孫を渡したりしない。もちろん、舅と姑はそんなひとたちじゃないのはわかっていたが、それでも、これは大きな別れになる。わたしと子どもが行くのはミラノやローマではない、パリやロンドンでさえない、はるか遠い極東の国なのだ。めったに会えなくなるわけで、そんなこと、ふつうは耐えられない。
しかし、義父母は見事であった。黙ってわたしと夫の選択を受け入れてくれた。
毎日ピンポ〜ンする気もちを抑えられないくらいわたしや子どもをかわいがってくれていた義父母にとって、それがいかにつらいことであったか。そんなつらさを黙ってこらえてくれた義父母の深い愛情、悲しみを思うと、わたしは今も胸がしめつけられる。ごめんなさい。悲しませて、ほんとうにごめんなさい…。
しかし、さらに驚いたことに、ピンポ〜ンは海を跨いだ。わたしと子どもが日本に帰国し、1万キロも離れた場所に行ってしまったにもかかわらず、義父母は毎夏、会いにきてくれたのである。それは子どもが小学校高学年になるまで続いた。義父母を初めて渋谷に連れていったとき、姑は交差点の激しい往来に目を丸くした。そして「あなたたちのせいでこんなところまで来る羽目になった」と苦笑した。遠出がきらいな人だったのだ。
〜 〜 〜
あの時まだ小さかった子どもは今では大学生になった。日本に帰国してからもう15年だ。名仲裁をしてくれた舅は何年か前に鬼籍に入った。
幸い、姑はまだ元気でいてくれていて、誕生日と季節の挨拶はずっと続いている。でもこのところ、電話の声が精彩を欠くようになった。ちょっと前までは「いつもあなたたちのことを思ってるよ」って、熱く話しかけてくれていたのに。
ここ3年、コロナで日伊の往来はむずかしかったが、きびしかった渡航制限がようやく緩和された。ワクチンも打ったし、今度はわたしが姑のドアをピンポ〜ンする番だ。
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