ボローニャ

ボローニャ大学へ、電車通勤

 

もう20年近くも前になる。ボローニャ大学でも日本語を教えることになり、週二で電車通勤が始まった。

朝6時、ヴェネツィア・サンタルチア駅からボローニャ行き始発に乗る。ヴェネツィアからボローニャまで、当時、インターレジョナーレと呼ばれていた準急電車で約2時間だ。

ヴェネツィア・サンタルチア駅は、ヴェネツィアの潟のなかにある。ヴェネツィアに住んでいる人がそもそも少ないうえ、本土側まで電車通勤する人はごく少数。しかも始発だから、次のメストレ駅まではたいてい車両にひとりきりだ。

電車は潟を出て海の上を走る。冬はまだ真っ暗だが、春や夏は朝日に輝く海が見える。車窓から景色を眺めているうち、10分ほどで、本土側のメストレ駅に着く。

メストレは戦後に発展したヴェネツィア郊外の町で、ここからは仕事に出かける人なども乗ってくる。が、朝早いので、それでもまだ数えるほど。気兼ねなくノートや本を広げ、授業の準備ができていいのだが、ときどき、思わぬ珍客と居合わせることがあった。

「ここ、座ってもいいですか?」

ほかにいくらでも席があるのに、わざわざ近くにやってきた男。通路をはさんだ並びの席に座ったと思うと、やたら咳をしてみたり、なんだかそわそわしている。不審に思い、目を向けると、露出狂だった。急ぎ荷物をまとめ、別の車両に移動する。

また、アフリカ系の女性グループ四、五人ともよくいっしょになった。ディスコからの朝帰り、みたいな服装、雰囲気、疲労感だ。

どういう人たちなんだろう? ふしぎに思っていたら、「ああ、それはナイジェリアのその筋のお姐さんたちだよ。夜のお仕事を終えて帰るんだ」と友人が教えてくれた。なるほど、こちらはこれから出勤、あちらは退勤というわけか。そのうち、チャオとあいさつを交わすようになった。

そんなある日、電車に揺られ、つい、うたた寝をしてしまったのが、ガサッという音で目が覚めた。隣の席に置いていたバッグから中身が滑り落ち、床に散らばっている。

電気の延長コード。形のちがう電気プラグがいくつか。懐中電灯。チョーク。スイスアーミーナイフ。のり。CD。ポータブルCDプレイヤー。下手な手書きのイラストが描かれた何枚ものスライド…。

近くの席に座っていたナイジェリアのおねえさんたちが、散らばった物をうさん臭そうに眺めている。あわてて拾い集めていると、訊かれた。

「あんた、なにしてる人?」

「えっ?ええっと、なにって、教師だけど…」

「教師〜?ふうん…」

おねえさんたちは腑に落ちないという面持ちだ。こんな朝早くから変な七つ道具を持ってヴェネツィアから乗ってくる。泥棒かなにかと疑われたかもしれない。でも、こんなもの、わたしも好きで持ち運んでいるわけではない。

 

ボローニャ大学で使う教室はクラスごとに変わり、どの教室も備品がそろっていない。黒板はあってもチョークがなかったり、ホワイトボードがあっても、書くペンはなかったり。CDで会話を聞かせたいのに、電源のプラグの形がCDプレーヤーのそれと合わなかったり(イタリアにはプラグの形は3種類ぐらいある)。電源が教室のうしろにあって、延長コードがないと使えなかったり…。

大学側に言ったところで、どうにもならないことはわかっている。しかたなく、自前の七つ道具をヴェネツィアの自宅から持ち運んでいるわけだ。

懐中電灯は何に使うかというと、こちらは一泊する民泊の宿用。イタリアでは建物内の廊下や階段の照明は、スイッチを押してから20秒ぐらいで自動的に切れる。それまでに目的の場所にたどり着けない場合は、再度、スイッチを押さなければならない。

が、そのスイッチがどこにあるかわからなかったり、壊れていたりすることがままある。前に一度、電気が切れて、真っ暗な建物のなかに閉じ込められたことがあり、以来、自衛のために懐中電灯を持参している。

そんな事情を、ナイジェリアのおねえさんたちは知るよしもない。変な荷物を持った、始発電車に乗っている東洋人。教師とか言っているが、どうだか…。関わり合いにならないほうがいいと思ったのか、それ以上深くたずねられることはなかった。

ナイジェリアのおねえさんたちは、パドヴァの次の、テルメ・エウガネエだったか、モンセリチェだったか、急行の止まらない小さな駅で降りていった。窓の外には朝靄の立つパダーナ平野が広がっており、畑には霜が立っている。こんなところに住んでいるんだ…。なんだかふしぎな感じだ。

 

電車がロヴィーゴを過ぎるころには、通勤や通学の乗客たちが増えてくる。しかし、普段はおしゃべりなイタリア人たちも、朝はさすがに眠いのか、口を開く人はいない。車内は静かだ。

それがフェッラーラに着くと、一気にたくさん乗ってきて、車内はほぼ満席になる。ここからボローニャまでは約半時間。日がだんだん高くなり、さっきまで寝ていた乗客も目を覚まし、上着を着たり、カバンを肩にかけたりして降りる準備を始めている。

電車がボローニャ駅に着くと、みんないっせいに席を立つ。イタリア人のこのメリハリ、というか、反射神経の良さにはかなわない。こちらがもたもたしている間に、あっという間にホームに降りる。出口へと続く構内の通路を、まるで蜘蛛の子を散らしたみたいに、東西南北へ散り散りバラバラに飛んでいく…。その様子は、大きな宇宙のなかで、無数の流れ星が行き交っているようだ。

しかし、そんな悠長なことを考えている場合ではない。ちんたらしていると、前後左右からやって来る人とぶつかってしまう。大きなバッグを抱え、自分も出口へと一生懸命歩いた。

 

 

ボローニャはイタリアの交通の要衝であり、大学もあって若者の多い、活気のある町だ。ヴェネツィアとはちがい、車やバイクがびゅんびゅん通る。まあ、普通なのだけど、長らくヴェネツィアの水上暮らしに慣れた目には、それがとても新鮮に映った。

教室はザンボーニ通りのボローニャ大学本館と、そこから少し離れた場所にある、どこかの高校を借用した場所の、二箇所に別れている。

ボローニャ大学で初めて開講される日本語の授業ということもあって、学生たちは熱心だ。椅子が足りなくて、床に座る生徒もいる。ただ、遅刻が多いのには閉口した。

 

わたしは遅刻にはきびしかった。ヴェネツィア大学では学生に、今度遅れてきたら教室に入れませんよ、などと言っていた。が、自分も電車通勤をしてみて、遅刻が不可抗力であることがわかった。

イタリアの電車は遅れる。やれ故障、やれ悪天候、やれストライキと、ひどい時には突然運休になってしまうこともある。特にローカル線の鈍行によく起こる。

ボローニャに住んでいる生徒はいいが、近郊の町から、あるいはわたしのようにかなり遠い町から電車で通う学生は、ちゃんと時間通りに家を出ても、電車の遅延で遅れてしまうことがある。それはもう、どうすることもできない。

ちょうどそのころ、日本で福知山線の事故が起こった。運転手がほんの1分何秒かの遅延を取り戻そうとして大惨事になったことが、イタリアでも大きく報じられ、授業中に話題になった。

たった1分かそこらの遅れのために、そんな必死になるなんて。イタリアでは何時間も遅れることもざらなのに…。

学生たちは信じられないといった顔で、級友たちと顔を見合わせている。

たいていのことがしかるべく機能する日本とちがって、イタリアでは、しかるべく行かないのが普通だ。電車は遅れるし、教室に備品はないし、椅子の数は足りない。学務室は常に混み合っており、各種手続きは滞る。

わたしの非常勤講師としての契約も、授業が始まっても滞ったまま、何ヶ月も支払いが遅れていた。中国語の先生と話したら、彼女もそうで、来月支払われなかったら飢える、と、目の色を変えていた。

 

 

一日の授業を終え、帰りの電車に乗るのは夕方6時ごろ。構内はラッシュアワーで激混みで、売店にも大勢の人が並んでいる。なんとか水と食べ物をゲットし、電車のホームに向かうと、そこがまた大混雑。ちゃんと列を作って並んでくれるといいのだが、そうではないから、横入りされないよう、気を張ってなければならない。

そんなある夕方、やっと見つけた空席に早く座りたいのに、隣の席で女性が立ったまま腰をかがめ、目を凝らして座席を調べている。どうしたんですか?とたずねると、

「麻薬の針が落ちてないか、調べているのよ」

そういえばちょっと前に、電車の座席に麻薬注射の使用後の針が落ちていて、それとは知らずに座った乗客に刺さり、肝炎だかなにかに感染したという事件があった。わたしも怖くなって、いっしょになって座席をチェックした。やっと一日の仕事を終えた後、疲れた体で、まだこんなことまでしなければならないのか。うんざりしたが、身を守るためにはしかたない。

大雪が降り、帰りの電車が長時間、止まってしまったこともある。

その日、雪がちらつくなか、ボローニャ駅に駆けつけると、ちょうど電車が出るところだった。喉が渇いていて水を買いたかったが、車内で買えるだろうと、そのまま電車に飛び乗った。ところがその日に限って、車内販売が通らない。

外を見ると、いつの間にか雪の降り方が激しくなっている。いやな予感がしたが、ヴェネツィアに着くまであと少しの辛抱、そう自分に言い聞かせ、我慢していた。しかし、雪はひどくなるばかりで、窓の外はもう真っ白。そしてとうとう、パドヴァの手前あたりで電車が止まってしまった。

駅の売店で水を買っておかなかったことが悔やまれた。30分、1時間、2時間たっても電車は動かず、喉の渇きが抑えられなくなってくる。車窓から見える、暗い平野に降り積もった白い雪を見て思った。あの雪を溶かして飲めないものか…。

 

こうなると通勤も命がけ。ヴェネツィア大学で教えている先輩講師たちも、ミラノやベルガモ、レッジョエミリアといった遠くの町からヴェネツィアまで通ってきておられたが、その大変さを、自分も身をもって知った。しかも、こんなに苦労して電車通勤しても、交通費は自腹…。

それでもまぁ、若かったせいか、つらいとは思わなかった。日本語を教えるのは好きだし、今は非常勤だけど、いつかは常勤になれるかもしれないという期待もあった。

また、ヴェネツィアから時々出られるのも悪くない。狭いヴェネツィアではどこに行っても知り合いに会い、逃げも隠れもできないが、遠く離れたボローニャでは誰も自分を知らない。そういう意味で、ちょっとした息抜きにもなった。

そしてなにより、生徒たちがかわいかった。彼らはイタリアでは数少ない、日本に興味を持ってくれる人たち。日本について知りたいという強い意欲を持って、こちらの言うことに、熱心に聞き耳を立てている ー そんな子たちだから、プレッシャーもあったが、やりがいがあった。

しかし、ボローニャでの一年の後、あわただしく帰国の日が決まる。唐突な別れに動揺し、この先もがんばって日本語の勉強をつづけてね…。そんなお定まりの言葉しかかけられなかった。

 

 

その後、一、二年してから人づてに、ボローニャの生徒が何人か、日本に留学してきたことを知った。マルコ、オフィーリア、ジュリア…。ボローニャ大学の、備品も椅子も足りない教室で、熱心に勉強していた彼らの姿を思い出す。慣れない日本の暮らしで困っていないだろうか。ちゃんとやれているだろうか。

できれば会って、話を聞いてあげたかった。よくやったね、がんばったね、と、ほめてあげたかった。が、あいにく、当時のわたしにそんな余裕は皆無だった。幼い子どもを抱えて深夜まで働き、息をしているだけで精一杯。頭の片隅で彼らのことが気になってはいたが、日本での生活再建に必死で、結局、声をかけてあげることはできなかった。

その後、何年も経ってから、風のうわさで、マルコは日本で結婚、その後離婚してイタリアに帰ったと聞いた。ジュリアはわからない。オフィーリアは日本で仕事を見つけ、がんばって働いているそうだ。

 

ボローニャにいたころは、彼らと授業で毎週会っていて、そんな日常がこの先もずっとつづく—そう思っていた。が、変化は突然、あるいは徐々に訪れる。道が別れ、それぞれが自分の道を歩むうち、共有していた時間はまたたく間に過去のものになった。気がつけば、もう声もかけられないぐらいの距離ができてしまっている…。

ボローニャ駅での通勤の光景を思い出す。電車が駅に着き、広い構内を北へ、南へ、無数の乗客たちが流れ星のように行き交うさまを…。

わたしと彼らも、人生という構内で、一瞬、かすめあった。そして、別れていった。

でも、忘れたわけではない。彼らの、あのころの輝き。ボローニャの教室で、一心に日本語を学んでいた姿は、今もわたしのなかで光を放ちつづけている。

 

 

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Anthony DaveyによるPixabayからの画像(カバー写真 )
UnsplashMarco Chileseが撮影した写真 (駅構内)
UnsplashRosen Stoyanovが撮影した写真 (夕刻の街路)
UnsplashDavide Cantelliが撮影した写真 柱廊
*これらはイメージ写真です

ABOUT ME
湊夏子
長いイタリア暮らしを経て、帰国。日英伊の3か国語でメシの種を稼ぎ、子どもを育てているシングルマム。