猫とサウダージ

 

先日、ある先輩が語ってくれた、彼が以前、ポルトガルに行ったときの話。妙に惹かれるものがあったので、ここにご紹介したい。

ポルトガルに旅行に行ったとき、ちょっとしたトラブルに遭った。なんか憂鬱になり、観光する気にもなれず、近くのカフェでちびちびとワインを飲んでいた。二、三日通ううち、カフェのおかみさんに、「あんた、日本人なのに観光もしないで、日がなこんなとこで飲んでどうしたの?」と聞かれた。

「別にどうってことはないけど…なんとなく気が晴れないんだ」

「ふうん…。そうなのかい。ポルトガルではそういうの、『サウダージ』っていうんだよ」

おかみさんはそう言って、それ以上はなにも聞かず、だまってワインのお代わりをついでくれた。その感じがとても心地よかったのだという。

「ポルトガルは大航海時代、栄華を築いたけれど、その後は再び発展することもなかった。斜陽の国の独特の価値観なのかもしれないね」

先輩はそんな意味のことを語ってくれた。サウダージという言葉はそれまでも耳にしたことはあったのに、今回はなぜか、とても心に響いた。

 

weblio辞典によると、サウダージとは、ポルトガル語で「郷愁」「哀愁」など、今はないものや昔のことを思い出して切なく思う気持ちを意味するのだそうだ。以下、引用する。

「単純になつかしむということではなく、温かい両親に育てられたことや、昔よく遊んだ人への思いなど、今になってはどうやっても手の届かない過去に対する『憧れ』的な意味も含む、心の微妙なニュアンスを含んでいる」。https://www.weblio.jp/content/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B8

別の辞書では、「過ぎ去ったものを懐かしむ気持ちで、『郷愁』に似ているが、それに二度と出会うことはないだろうという諦めや宿命を含意している。サウダーデはポルトガル人の国民性の一部とされ、大航海時代に戻ることのなかった男が多かったために形成されたと考えられている」とある。https://eow.alc.co.jp/search?q=saudade%29

「遠く離れたり、すでになくなっている人やモノに対する、メランコリックかつ心地よい思い出」とも。https://bra-brasil.com/saudade-meaning

こうして説明を読んでいるだけで、けだるい甘さがただよってくる。いいなあ、サウダージ。無理して前を向かなくても、これぐらいの脱力感でいいんじゃないか。サウダージに心がどんどん傾いていく…。

 

いつごろからだろう、ポジティブって言葉が世を席巻するようになったのは。80年代後半ぐらいか。ポジティブシンキングという、なんでも前向きにとらえ、ガンガン前進せよという考え方が、たぶんアメリカから伝わって、日本にも広まった。

自分はそういうたちじゃなかったが、そうしなければいけないような全体の空気のなかで、かなり無理して合わせた。生存競争というものがあるので、ひとりだけ物思いにふけっているわけにもいかない。

でも、前進することしか考えないと、心はすり減る。人には、「今になっては手が届かない、過去に対する憧れ」、そんなことに思いを馳せる時間も必要だ。サウダージという言葉は、パンのみでは生きていけない人間という存在の複雑さを教えてくれる。心だって、甘いものを欲しがるのだ。

 

ここで話がいっきに飛ぶが、うちの飼い猫など、サウダージそのものである。

猫を飼ってらっしゃる方はよくご存知だと思うが、猫の習性のひとつに、ふみふみというのがある。飼い主のからだや毛布、セーターなどを、前脚で交互にリズミカルに踏む、という行動である。人がパンやパスタなどの生地を練る動きに似ていることから、英語ではkneadding、イタリア語ではfare la pasta と表現される。

この行動は、猫が赤ちゃんのとき、おかあさん猫の母乳が出やすいよう、足でおっぱいをふみふみしていたのに由来するそうだ。猫はふみふみするとき、目を細め、恍惚とした表情になるが、これは飼い主におかあさん猫の面影をうつし、おかあさん猫のおっぱいを吸っていたときのことを思い出し、気持ちよくなっているのだという。

うちの猫はこのふみふみを日がなやっている。子猫だったときのこと、おかあさん猫との温かい思い出、「今になっては手が届かない、過去に対する憧れ」に、ずっとひたっている。うちの猫にとって、今を生きるというのは、過去の思い出に生きることのようだ。そんな生き方もあるのだ!

そんなことを考えていて、別のふしぎな生き物、セミのことが想起された。

セミの一生は七年七日と言われる。幼虫として七年も土のなかにいて、成虫になって地上に出てからの命は、たった七日。セミの一生を思うと、生きるってなんだろうって、考え直してしまう。

まあ、人間だから、ずっとおかあさんのおなかのなかにいることもできないし、思いにふけっているわけにもいかない。働いたり、子どもを育てたり、どうしても忙しい一生になる。

それは今日を生きるポルトガル人も同じだと思うが、そんななかで、サウダージの時間を大事にいつくしみ、旅人に共感してくれる。国は斜陽でも、深い心、精神性を持つ国民なんだなぁと、いっきにポルトガルへの旅情をそそられた。

先輩、素敵なエピソードをありがとうございました!

 

 

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UnsplashShawn Rainが撮影した写真(カバー写真)

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トリリンガル・マム
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