本・作家

月と六ペンス コンプラ社会の今こそ読むべし

 

なぜこれまで読まなかったのだろう。サマセット・モームの有名な小説。それこそ小学生のころからその名を知っていたのに。モームの他の短編は読んでいたのに。でもまあきっと本も人と同じで、出会うタイミングというものがあるのだろう。わたしは今ごろになって出会った。図書館でふと背表紙に目がとまった。

絵を描くために家族を捨てて出奔した四十男の、狂気のような苦しい情熱と過酷な半生の物語。百年も前に書かれた話だが、世界がコンプラ的監視社会と成り果てた今日、その人間らしい生き方がむしろ新鮮だ。

身勝手で無謀な生き方を周囲から非難される主人公。たしかにその他者への無関心は非情で、時に残酷でさえある。が、同時に潔くも感じた。短い人生、やりたいことをやろうとしたら捨てねばならないものも出てくる。世間から難癖をつけられないように生きているだけでは真に生きているとはいえまい。

人間はルネッサンス、近代と、豊かな人間性獲得をめざしてきたのに、このところ相互監視や自己規制が過剰に強まり、かえって後退しているように感じるのはわたしだけだろうか。

この物語の主人公は欠点だらけの人間だ。ときに目をそむけたくなるようなひどいことをするし、女性蔑視の言葉も現代の感覚からは不愉快だ。しかし、人間とは本来、利己的で、狂気と正気をあわせもった存在なのではないか。

昨今、コンプラを気にするあまり、社会が課す鋳型に無理して自分をはめこもうとして萎縮したり、苦しんだりしている人が増えているような気がする。かくいうわたしもそんな空気に毒されているひとりで、ゆえにこの主人公の生き方に打たれた。一幅の風が吹いて目を覚まされたように感じた。以下、ストーリーを紹介するので、ぜひ読んでみてください。

 

金原端人さんによる新訳版。読みやすい


月と六ペンス

 

主人公のストリックランドはロンドンで株式仲買人をしている四十男。仕事も家庭も不自由ない生活をしていたのに、ある日突然姿をくらます。女と出奔したと勘繰った妻は、友人の若い作家——語り手の「わたし」——に連れ戻しに行くことを依頼する。「わたし」が居処を突き止め、パリを訪れると、当の赤毛の大男は場末のおんぼろアパートでひとり一心に絵を描いていた。絵が好きとか、そんな生半可な話じゃない。絵以外のことには一切無関心。自分でもわけのわからない情熱に駆り立てられてこうなったようだ。

家族を見捨てるのかと問い詰められると、「今まで食わせてやったんだからこれからは自分たちでなんとかするがいい」。心配した画家仲間が食べ物を差し入れしてくれても、腹だけ満たすと追い返す。人を人とも思わない傲岸な態度、非情さは、憎らしいなんてものではない。女性への態度もひどく、今日の読者からしたらゆるしがたいような言動も目立つ。

一方で、その孤高なあり方はまたふしぎと人を惹きつける。ロンドンでは冴えない男と評され、妻からもつまらない人と言われていたのに、絵に取り憑かれてからのストリックランドには超俗的な凄みが生まれていた。食べるものにも事欠くなか、まるで悪魔に魅入られたかのようにキャンバスに向かう。そんな彼の絵の真価を見抜き、献身的に支えるのが、友人の画家、ディルク・ストルーヴェだ。

バカがつくほどのお人好しで、陽気で愛情深い誠実な人物。自身は三流画家だが本物を見極める鑑識眼を持ち、ストリックランドの絵は後世に残る絵だと見抜く。困窮しているストリックランドに惜しみなく尽くすが、人の厚意など意に介さないストリックランドは彼の愛妻、ブランチを寝取り、無惨な悲劇を引き起こす。このあたり、読んでいてストリックランドに激しい怒りをおぼえた。

しかし、作者の巧みな筆は、この悲劇がストリックランドだけに因があるのではないことを示唆する。三人三様の、人生そして他者になにを求めるかの相違に起因する、避けられなかった事件だったことが読み取れる。

ブランチは自分を偽って生きられない女だ。困っていたときにストルーヴェに助けられ、妻になった。ストルーヴェは彼女を心底大事にしていたが、ブランチはストリックランドに会ったとき、自分の本質を見抜く男の視線に身も心も粟立ったのだろう。死ぬほど反発しつつも抗えず、結局は夫を捨て、ストリックランドのもとに走った。

ストルーヴェの人間離れしたやさしさ、ブランチの自らを破滅へと追い込む秘めた激しさ、ストリックランドの絵以外のものへの無関心と非情さ……。この悲劇は前半の大きな山場だが、読んでいて運命のむごさに呆然としてしまった。

後半、ストリックランドは方々で困窮し、殴られたり、殺されたりしそうになった挙句、ひょんなことからタヒチに渡る。タヒチのエキゾチックな自然は彼が心のなかでもとめていた光景のようだ。困窮しながらも一心に絵を描き、島の人たちもまた、こんな一文なしのろくでなしをおおらかに受け入れてくれる。

なかでもアタという少女がストリックランドに惚れる。そのとき彼はもう五十ぐらいだから、父親以上に年齢が離れた相手だ。が、それでも絵に注ぐ情熱がストリックランドに独特の輝きと生命力を与えていたのだろう。アタは彼を島の奥地にある自分の生まれ故郷に連れていく。人里離れた天国のようにうつくしい自然のなか、ふたりは自給自足の生活をする。

アタは文明に毒されていない島の女ゆえ、文明の弊害ともいえる過剰な自意識から自由でいられたのかもしれない。ストリックランドに干渉せず、彼は絵に専念することができた。子どもも生まれ、しばらくはおだやかな年月がつづく。数年後、ストリックランドに悲痛な運命がふりかかるが、アタはそれを共にし、献身的に支える。

死ぬ直前、ストリックランドは自宅の小屋の壁に大きな絵を完成させた。最後は盲目になってからも描いた。危篤の知らせを受け、訪ねていった医者は、すさまじい悪臭ただよう部屋のなか、壁に描かれた絵に息をのむ。言葉にできない感動に打たれ、これは人間が描ける絵ではない、天才の、禁断の絵だと感じる。描いたのは「秘められた自然の深みに分け入り、美しくも恐ろしい秘密を探し当てた男。知ってはならない秘密を知った罪深い男だ」と。

ストリックランドは追い求めていたものをつかまえたのだろうか。

さて、タイトルの「月と六ペンス」。これが意味するところはすでにいろいろな人が書いているが、わたしの感想もほぼ同じ。月は芸術、神秘であり、我々が心打たれるような神々しいものの象徴、六ペンスは現実の生活だと思う。

我々の多くは月に憧れ、崇めつつも、地を這いつくばって生きている。ふたつの矛盾するベクトルのあいだで、時に引き裂かれながらもなんとかバランスをとり、妥協しながら生きている。だがこの物語の主人公は六ペンスを無視し、月だけを見て過酷な半生を生きた。そんな男に惚れたブランチは男の愛を得られずに死に、男をありのまま受け入れたアタは想像を絶する辛苦を背負い込んだ。

月をものにしようとする男に対抗し、生き延びることができたのは俗物の妻だけだ。出奔した夫を憎んでいたが、夫が死後天才画家と評されるようになったあかつきにはその地位をちゃっかり利用した。彼女にとって芸術は社交の道具、自分を飾るブランドで、芸術家である夫の苦悩には関心がない。しかし、ストリックランドの死闘を読めば、芸術がマリーアントワネットのお菓子でないことは明らかだ。

作家はそれを見事にストルーヴェに語らせている。以下、引用する。

「美とは、芸術家が世界の混沌から魂を傷だらけにして作り出す素晴らしいなにか、常人が見たこともないなにかなんだ。それもそうして生み出された美は万人にわかるものじゃない。美を理解するには、芸術家と同じように魂を傷つけ、世界の混沌をみつめなくてはならない。たとえるなら、美とは芸術家が鑑賞者たちに聴かせる歌のようなものだ。その歌を心で聴くには、知識と感受性と想像力がなくてはならない」

 

〜終わり〜

 

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トリリンガル・マム
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