前回につづき、今回は「レベッカ」の作者、ダフネ・デュ・モーリアその人についてお話しする。
「レベッカ」を夢中になって読んだ後、どんな人が書いたんだろうと検索してみた。するとうら若い乙女の写真が出てきた。
ととのった、聡明そうな顔をしている。が、なにより印象的なのはそのまなざしだ。若くしてすでに自分の世界を持っている人のそれで、こちらが見透かされそうな目をしている。
なるほど……と納得するとともに、さらに関心が高まった。日本語だと情報が少なかったので英語でサーチすると古いドキュメンタリーやテレビ番組のyoutubeがいくつか見つかった。それらを総合すると、複雑な内面を抱えたダフネの像が浮かび上がってきた。
1907年、ロンドン生まれ。父が当代きっての俳優という華やかで裕福な家庭に育つ。ごく若いころに作家として成功し、コーンウォールの荒々しい海と自然を愛し、巧みに船を操った。ヨットを操縦したり、くわえタバコで執筆するハンサムな姿はレベッカを彷彿とさせる。
が、社交的な人ではなかった。レベッカがパーティーを開いて女主人としての権勢を誇示するのを好んだのとは正反対で、孤独を好んだ。海軍士官と結婚し、三人の子どもをもうけるが、その結婚生活は別居の時間のほうが長かった。
表向きは軍の高官の妻というエスタブリッシュメントなプロフィールを保ちつつ、ひそかに女性に恋慕した。そんな自分の性的指向、ファンタジーの世界と現実との乖離に時に鬱になるほど悩みつつ、ダフネは書いた。冷徹なまなざしで人間を見据え、切れ味鋭い筆の力で……。
時系列順にもう少し詳しく見ていく。
育ったのはロンドンの高級住宅地、ハムステッド。文化人や芸術家が好んで住むエリアだ。両親ともに俳優、特に父のジェラルドは「ピーター・パン」の作者、J・M・バリーのお気に入りの人気俳優だった。祖父もパリで風刺漫画家として有名。そんな芸術家の血筋に生まれた。
三人姉妹の末っ子で、父が男の子を強く望んでいたことから、小さいころは男の子の服を着せられていた。ダフネは男の子になりたかったそうだ。
幼少から読書好きで、なかでもブロンテ姉妹をよく読んでいた。ブロンテ姉妹が好きというのはよくわかる。土地や古い家にある魂のようなものに共鳴する感性は「レベッカ」や「レイチェル」によく表れている。
年頃になるとパリのフィニッシングスクールに送られた。フィニッシングスクールとは良家の子女に礼儀作法など教える寄宿学校だ。
1920年代のパリは、第一次世界大戦の解放感から自由で革新的な新しい文化が一気に開花した時代。ガードルード・スタイン、ヘミングウェイたちが活躍したボヘミアンな時代だ。ダフネはフィニッシングスクールの校長で12歳年上の才気煥発なフランス女性に恋心を抱いた。
フィニッシングスクールを終えて実家に帰ったダフネはその女性から離れ、ふさぎこむようになる。心配した両親は静養させようとコーンウォールの海辺の別荘に連れていった。それはコーンウォールとの運命的出会いだったのだろう。ダフネはその土地に強く惹かれ、両親を説得してひとりとどまった。そこで執筆し、24歳で出版した「Loving Spirit」が成功すると早々と親から独立している。
ダフネは子どものころから日記やら物語の断片やらを書いていて、最初期の作品に「人形」という短編がある。男を翻弄するミステリアスな若い娘が、部屋に密かにセックスドールを持っているという話だ。当時のまだ21歳の娘にしては大胆というか、過激といっていいほどの内容で、父親はけしからんと怒り、出版社からは断られたそう。が、専門家は「性的にも自立したモダンな女性」を描いているとし、のちのレベッカというキャラクター造形の萌芽を見る。時代は1928年。イギリスでは女性が議決権が獲得し、ヴェージニア・ウルフがジェンダーを扱った「オルランド」を書いたころ。時代の意識の影響もあったのかもしれない。
ダフネは若いころ、映画監督のキャロル・リード(『第三の男』の監督)と接近したことがあるそうだ。父親から反対されて関係は進展しなかったようだが、ほかにもつきあった男性はいた。それでいて女性にも惹かれている。ダフネ自身も家族も認めてはいないが、彼女にはバイセクシャル的傾向があったようだ。
結婚は早い。ダフネの作品を読んで興味を持った海軍士官、フレデリック・ブロウニングがダフネが住んでいる海辺の村を訪れ、二人は出会い、結婚する。夫は軍人だがデリケートな内面を合わせ持つ人だった。
次の作品、「ジャマイカ・イン(『原野の館』)」では、当時の夫の18ヶ月分の給料を稼いだ。夫の赴任先のエジプトに同行するが、軍人の妻として社交するのが苦手だったそうで、夫を置いて子どもたちとイギリスに帰る。
コーンウォールで妹と散歩をしていたとき、大きな廃墟のような屋敷を見つける。のちに住むことになるメナビリー館だが、それにインスパイアされ、数ヶ月で「レベッカ」の初稿を書いた。構想のきっかけは夫の元婚約者からの手紙を見たことだという。その筆跡は力強く、自分よりはるかに大胆で自信のある人だと嫉妬心をおぼえたという。それがレベッカのテーマとなった。
「レベッカ」出版は1938年、31才の時。出版社の意向でセンチメンタル・ロマンスのように宣伝され、ダフネはとても嫌がったそうだが、いずれにしてもレベッカはベストセラーとなった。ヒッチコックが映画化したことでさらに世界的なベストセラーとなった。
1943年、36才のダフネはレベッカの成功で大金を得ると、憧れていたメナベリー館に居を移した。長年放置されていた古い屋敷には最初、電気も水道も通っていなかったが、それでも子どもたちを連れて移り住んだ。ダフネは古い家には語りかけてくる声というものがあるといっている。そこに住んでいた人たちのことを想像できたと。もっと前には岩礁で見かけた大きな船の残骸に関心を持ったこともある。古いもの、見捨てられたものたちがストーリーテラーのダフネを呼ぶのだろうか。ダフネはそこで子どもたちと暮らしながら執筆をつづけた。
1945年、終戦で夫が4年ぶりに帰ってきた。新しい勤務地はロンドンだ。しかしダフネは生活と仕事のペースを乱されたくないと、ついていくのを断る。夫は週末だけ家族のもとに戻る生活を余儀なくされる。
そんなダフネに災難がふりかかる。映画「レベッカ」が成功して世界的有名な作家になったはいいが、アメリカの作家から盗作だと訴訟を起こされたのだ。ダフネは裁判に出るため、アメリカに行かなくてはいけなくなった。アメリカの版元で出版界の大物、ネルソン・ダブルデイとその妻エレンはロングアイランドの大邸宅でダフネを女王様のようにもてなした。エレンはダフネを毎日キャデラックで裁判まで連れていった。
エレンは社交的で自由闊達な魅力的な人だった。レベッカがマンダレーに君臨したように、エレンはロングアイランドに君臨していた。ダフネはエレンに強烈に惹かれた。それはおそらく秘めた恋心であって、それ以上に発展したわけではないだろう。しかしそれはダフネを打ちのめすのに十分だった。裁判には勝ったがダフネはぼろぼろだった。エレンへの思いが断ち切れず、神経衰弱に陥った。
帰国後、その思いをぶつけるように、あるいは断ち切るように、ダフネは執筆に集中する。「September Tide」という戯曲を書き上げる。それは継母と義理の息子との禁断の恋を描いた話だ。
主演は当時の人気女優、ガードルード・ローレンス。コックニー訛りで話し、大胆で楽しい人物だったようだ。ダフネはガートルードにエレンを投影し、魅了される。ガートルードを慕い、ついてまわる。が、びっくりなのが、ガートルードがダフネの父親の愛人のひとりであったこと。父はもう亡くなっているとはいえ、ふつうなら引きそうなものだが、そんなことには頓着しないのか、それとも父の親しい人だったからこそなのか。ダフネは自分が内向的で繊細な分、社交的で自由闊達、包容力のある女性に惹かれたようだ。
ガードルードが54才で亡くなると、ダフネは家族が不思議がるぐらい落ち込む。45才、メナベリーで鬱になる。夫もそのころ鬱に悩んでおり、夫婦そろって困難な時期となる。ダフネは救われたい一心から精神分析に興味を持ち、カール・ヤングを読み、無意識の領域の存在を知る。
1957年、「スケープゴート」を刊行。この作品にはまったくもって瞠目する。イギリス人の歴史学者ジョンと、フランス人の伯爵ジャン。別人なのに瓜二つの顔をしたふたりが偶然出会い、二人が入れ替わるという話だ。それは伯爵ジャンの策略で、崩壊寸前の家庭と会社、複雑な人間関係をジョンに押し付け、身替わりさせるのだが、いくら瓜二つといっても妻や母親が気づかないなんてあり得ない。と、最初は思った。が、ダフネの筆はそれを可能にする。見事な心理描写でなるほどさもありなんと納得させるのだ。すごい筆の力である。そして終盤では、身替わりによってある種の平和がもたらされる。専門家はダフネはこの小説を書くことで自分のなかの二つのパーソナリティーを修繕し、癒そうとしたのだと指摘する。
そんな天才作家を妻に持つというのは気苦労も多いのだろう。夫はロンドンでの一人暮らしを長年強いられた。倒れてダフネが駆けつけたときには夫はかなり衰弱していた。夫の愛人から電話があり、すべてあなたのせいよとなじられた。1965年69才で夫が死ぬ。ダフネはひとりでロンドンに置き去りにしたことをひどく悔やんだそうだ。勝手だったと。
ダフネの短編もすばらしい。専門家がダフネは「ヴィジュアル・ライター」だと指摘しているように、彼女の作品を読んでいると目にその光景が浮かぶようだ。だから映画との相性がいいのか、ヒッチコックにより「レベッカ」、「鳥」が、またニコラス・ローグにより「赤い影(原題は『今見てはいけない』)」が映画化されている。前述の「スケープゴート」も「レイチェル」という作品もだ。
ダフネは第六感を信じていたそうだ。まあそれはそうだろう。古い家や土地などが語りかけてくるのが聞こえる人なのだから。
「赤い影(小説のタイトルは『今見てはいけない』)」は、ヴェネツィアに観光に行ったとき、路地を子どもが走っているのを見て不吉に感じたことに構想を得た作品だという。ヴェネツィアの迷路のような暗い路地を走る赤い影といい、双子の老姉妹といい、なんともいえない不穏な感じをかきたてる作品だ。

いま見てはいけない (デュ・モーリア傑作集) (創元推理文庫)
BBCの番組は貴重なものだ。人前に出るのが嫌いなダフネがめずらしくインタビューに応じている。大作家を前に緊張しているインタビュアーを前に、かなり年老いたダフネが、64年書きつづけてきたが衰えは感じない、アガサ・クリスティーは80才まで書いているから自分もまだまだつづけていけると答えている。インタビューが行われた家はメナベリー館ではなく、その後に借りた家だそうだ。夫の死後、ダフネは長年愛したメナベリー館を借主に返し、別の家に移った。
ダフネはその後も「The House on Strand」という長編を書いている。番組に登場していた本屋さんが、レベッカよりこちらのほうが傑作だと思うと話していた。日本語版がないか探したら「わが幻覚の時」という邦題で1970年に刊行されていたものがあるとわかった。手に入れられたら読んでみたい。
この作品のあと、書くものは伝記やコーンウォール地方のことに変わっていった。娘や息子、孫との時間を楽しむようにもなったようだ。
1989年の春、ダフネは食べるのをやめた。しばらくして最後にもう一度メナベリーを見に行き、その翌日81才で死んだそうだ。くわしいことはわからないが、食べるのをやめたとは死期を悟ったということだろうか? なんとなく、野生の動物は死期を悟ると穴にひとりこもるという話を思い出した。野生動物と同じ潔さを感じた。
ダフネは複雑な人だった。力を持ちたい、自由でありたいという欲望を持ち、ファンタジーの世界と現実の世界、両方の手綱を取ろうとした。軍の高官の夫がいてレイディーと呼ばれる、そんなエスタブリッシュメントの世界も必要だったし、好きな人を恋慕うことも必要だった。内向的で孤独を好むダフネだが、これと思った人を慕う気もちは執拗だ。
ダフネが現代に生きていたら、バイセクシャル的自分をカミングアウトしていただろうか。う〜ん、どうも想像できない。彼女はどんな時代にいても、プライベートなことは明かさなかったと思う。大切なことほど胸に秘めて大事に守る。それがどんなに苦しくても……。彼女はそんな人なように思う。
自己矛盾を抱え、でもそれを単純に解決しようなどと思わず(そんなことが不可能なのは明らかだから)、それを生き、書いた。甘いところやご都合主義なところがちっともないその作品を読むたびに、彼女の乙女のころの顔が立ち上がってくる。そして思う。これらはやはり、あの透徹した眼差しによって書かれたものだと。
〜終わり〜
参考番組
Daphne du Maurier – in Rebecca’s footstep (大変参考になりました。興味深い。情報の大部分をこの番組から得ています)
1971: hit novel REBECCA was JUST A PHASE, Daphne du Maurier, BBC Archive (自らをさらすのが嫌いなダフネがインタビューに応じた稀な番組)
Daphne du Maurier: TC Global News
Menabilly duMaurier1989
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