本・作家

須賀敦子先生の、遠いまなざし

 

没後、長い年月を経て、なお、広く読みつづけられている作家、須賀敦子。

戦争のつめあとがまだ残る時代の、フランスやイタリアでの稀有な経験を、深く思索し、醸成させた、うつくしい端正な文章は、今も多くの読者をひきつけてやまない。

須賀はまた、上智大学の文学の教授でもあった。英語で授業を行う国際部である市ヶ谷キャンパスで、文学を教えていた。不肖ながら、わたしはその教え子のひとりだ。

といっても、不勉強で不出来な学生で、須賀先生と特別なかかわりなどはなかった。が、卒業後、何年もたってから、思いもよらずイタリアに住むことになり、それもあって先生の著作をくりかえし読んだ。先生のたどった道、先生の考えられたことを、読書を通してたどることとなった。

先生のご本の愛読者の、また、教え子のひとりとして、須賀先生のご本がなぜ長く、広く、読みつづけられているかについて考えてみたい。

 

上智大学市ヶ谷キャンパスは、大使館やミッションスクールが多い番町にある、4階建てのこじんまりした建物だ。主に、帰国子女や外国からの留学生、在日インターナショナルスクールで教育を受けた学生たちが通っていた。なかにはわたしのように、高校時に外国に交換留学しただけの学生もいたが、ほんの少数だ。

須賀先生の講義はゼミ用の小さな教室で行われた。

当時、先生は、五十代後半ぐらいか。親より上の世代だ。表情も、服装も、おだやかで落ち着いていて、品がいい。わかりやすい英語で、ていねいに教えてくださるが、静かな威厳があった。

また、わたしには、先生のまなざしがどこか遠い気がした。わたしたち学生のことを見てはいるが、心はどこか遠いところを見つめている。そんな印象があり、ちょっと近寄りがたかった。

 

須賀先生のクラスで、西洋文学史、日本文学史、三島由紀夫・川端康成・谷崎潤一郎の比較といった科目を受講したのを記憶している。なかでも西洋文学史の印象が強い。というのは、なじみがなく、むずかしかったからだ。

講義でとりあげられた作品に、ホメーロスの「オデュッセイア」、ダンテの「神曲」などがあった。後者では、詩人ウェルギリウスがダンテを案内し、地獄めぐりをするエピソードなどを先生が講義してくださるのだが、日本の普通の高校の出で、そんなことを習ったことがない自分は、ウェルギリウスが英語ではVirgilになることや、purgatory(煉獄)の存在も知らなかった。だれがどこにいるのかで混乱した、というレベルの、ていたらくだ。

また、中間試験や学期末試験のたび、ペーパーと呼ばれる小論文を書かなければならないのだが、これにも難儀した。先生は常々、日本式感想文はだめだ、とおっしゃっていた。日本の小学校では、思ったことをすなおに書きなさい、と教えるが、「わたしはこう思いました」的なことを書いても意味がない。もっと批判的な視点が必要だ、ということを強調しておられた。

まれに先生は、授業のあいまに、ちょっとした個人的なエピソードを話してくださることもあった。

谷崎潤一郎の「細雪」が発表された当時、須賀先生のおばさんたちが夢中になって、奪いあうようにして読んだ、とか。先生は大阪の良家の子女なので、細雪の世界は先生のご家族にとって、自分たちの話のようだったのかもしれない。

また、先生は日伊の文学作品の翻訳でも知られているが、なかでも、日本の文学作品を60年代にいち早くイタリア語に翻訳し、紹介した、という功績がある。川端康成夫妻に会ったときの印象を、「カワバタは棒のように細いのに、奥さんのほうはふっくらと丸っこかった」と評し、おかしそうにほほえまれたのをよくおぼえている。

そして、あれはなんの講座だったか。若い学生たちにまじって、修道女の服を着た、年輩の外国人のシスターも受講していた。先生がシスターと、ボンジョルノ、とあいさつをかわすのを聞いて、学生たちは、あれ、フランス語じゃないよね。どこの言葉かな?なんてささやきあった。当時はだれもイタリア語なんて知らず、見当さえつかなかったのである。

 

先生が、「ミラノ 霧の風景」で女流文学賞、講談社エッセイ賞を受賞されたことを知ったのは、大学を卒業し、社会人になってからだ。須賀先生が本を出されたんだ、との感慨があった。すぐにご本を買って読んだが、当時の自分には、正直、あまり響かなかった。

二十代半ば、就職してようやく自分のお金も得て、この世の春を謳歌していた年ごろだ。時代もバブル期で、世の中の空気も浮かれていた。先生の書かれているミラノは、自分には縁のない場所だったし、昔の話なのであまりピンとこなかった。それより、現実のほうが楽しかった。熱望して入った広告会社の仕事と、恋人とのデートで忙しく、生まれて初めて、本に心が向かなかった。

 

しかし、まもなくして、バブルが弾けた。時を同じくして、自分の人生も暗礁に乗り上げる。

のめりこんだ恋愛がうまく行かず、苦しくて自暴自棄になった。まわりにも迷惑をかけ、好きだった仕事まで手放してしまった。なんとか立ち直らねば、と、いろいろやってみるが、なにをやってもうまく行かない。八方塞がり。もう、ダメかもしれない…。そんな時期が何年かつづいた。

自分を見失い、激しい自己嫌悪に陥っているわたしを見かねたのか、年上の女友だちがイタリア旅行に誘ってくれた。たいして興味もなかったが、わらをも掴みたい心境でもある。それで、行ってみたら、未知の国に好奇心を刺激され、少しだけ、生きる意欲を取りもどした。それがわたしの、イタリアとの出会いだ。

 

その後、ふとした縁で、あらためてイタリアに遊学することになった。たった三ヶ月の予定だったが、新しい目標ができて、少しやる気がもどってきた。イタリア旅行中に関心を持った、ルネサンス美術についての本を買って読んだ。イタリア語の勉強も始めた。そのころ、須賀先生の「ミラノ霧の風景」を思い出し、読み直してみた。

先生がイタリアで暮らした遠い日々の、ふれあいやできごとを、繊細な感受性と秘めた情熱、抑制された文章でつづってある。数年前に読んだときとちがって、今度はすごく心に響いた。イタリア、という接点ができたこともあったが、この何年かで、どうにもならない挫折や苦しみを経験したことも大きかったかもしれない。先生はこんな経験をされ、こんなことを考えていらしたのだ…。わたしは、先生のまなざしが遠かった理由が、少しだけわかったような気がした。

 

イタリアへの渡航が近づいたころ、当時住んでいた祐天寺の駅のホームで、偶然、須賀先生を見かけた。そういえば、このあたりにお住まいだと、昔、聞いたことがあるような…。

猫背で、肩がちょっと前かがみの、きゃしゃな、小柄なシルエット。遠くからでも、須賀先生だとすぐにわかった。なにを考えておられるのか、心が遠いところを見ているような、伏し目がちな横顔も、教わっていたころと変わっていない。

須賀先生! 先生から数メートル離れたところにいたわたしは、なつかしくて、思わず声をかけそうになった。が、できなかった。近づくこともできなかった。

本を読んで知った、先生が歩まれてきた道、先生の気高い精神と真摯な生き方を思うと、わたしもイタリアに行くんです、なんて、とても言えない。自分を見失い、見苦しく停滞してしまっている自分には、合わせる顔がない…。

ふと、先生の作品の一節を思い出した。先生が東京の大学院生時代、ほかの、やはりなにかを専門に研究しているふたりの女ともだちと話し合うとき、「会話はいつも、女が女らしさや人格を犠牲にしないで学問をつづけていくには、あるいは結婚だけを目標にしないで社会で生きていくには、いったいどうすればいいのかということに行きついた」というくだりだ。

先生は、そんなテーマを机上の空論で終わらせることなく、実地で模索された。フランスで、イタリアで、帰国後の日本で、道がない場所に、ひとつひとつ、自分の道をひらいて来られた。

ずっと後の世代の女であるわたしたちが、より広い選択肢を手に入れ、より大きな自由を謳歌できているのは、この、先生のような先輩たちによる恩恵が大きい。なのに、わたしは、せっかくの選択肢も、自由も、ちっとも使いこなせていない…。

また果てしない自己嫌悪に陥りそうになるのに、必死であらがいながら、電車を待っている先生の横顔を、じっと見ていた。先生の、なにかを追っているような、遠いまなざし。あれは、なにを見ているのだろう。

ミラノで仲間たちと作ろうとした理想の共同体のことか。今は亡き人となってしまった、最愛のご主人か。夫を亡くしてからの、長い孤独の日々。困難だったにちがいない、日本での再出発。それとも、これから書こうとしている小説のことか…。

まもなく、電車がホームにすべりこんできた。ドアが開き、ゆったりとした足取りで、先生が乗り込む。その小柄なうしろ姿が見えなくなり、電車が出発してしまっても、先生が立っていた場所を見つづけた。行くところがあったはずなのに、なぜか動けず、でくの坊のようにホームに突っ立って…。

 

それからしばらくして、わたしは渡伊した。イタリアでの滞在、勉強は、予想をはるかに上回るおもしろさで、三ヶ月の予定だった留学は半年に、気がついたら一年に延びていた。その間に、思いがけぬ出会いがあった。結婚したり、新しい仕事を始めたり、子どもができたり…。結局、十二年もの年月をイタリアで過ごすことになった。

そんなイタリア時代にも、須賀先生のご本は、取り寄せて、何度か読んだ。「コルシア書店の仲間たち」、「ヴェネツィアの宿」、「トリエステの坂道」…。

離婚して、日本に帰国してからも、折にふれ読みかえしている。一度読んで、もう内容も知っているのに、なぜかときどき、また読みたくなる。先生の本を手にとるのは、わたしの場合、日常の煩雑さに疲れ、ひとり静かに自分と向き合いたいときが多い。

 

先生の作品は、鎮魂歌だと思う。若くして亡くなったご主人、同じ理想を胸に共同体をつくりあげようとした仲間たち、ヨーロッパに深い憧れを抱いていたご両親や、つつましい出自の夫の家族…。自分がかかわったたいせつな人たちを悼み、彼らの生きた人生にそっと寄り添い、連帯する。その、静かだが強い、愛の歌のなかで、作者の孤独がひときわ胸を打つ。

生きることにまじめな人が書いた本。求道的、といっていい内容の本だ。わたしは好きだが、こんな内省的な本が、あの浮かれたバブルの時代に大きな賞を取ったこと、没後も広く読み継がれていることは、ちょっと意外でもある。

今日、リアルな書店は激減し、出版不況が叫ばれて久しい。数少ない、生き残った書店でも、平積みしてあるのはビジネス本や、ハウツー物がメイン。文芸だって、ベストセラー作家の新作か、口当たりのよさそうな、ライトなものがほとんどだ。日々、そんな現実を見ていると、もうだれもまともな本は読まないのかと思う。

しかし、それはわたしの早とちり、偏見だったようだ。

わたしは図書館が好きで、よく行くが、書架の、須賀先生の本の本棚は、貸出中で、空っぽであることが多い。先生の本は、ひっそりと、今日もどこかのだれかに読まれているようなのである。

それを見て、わかった気がした。

死や別れにより離ればなれになってしまった、たいせつな人たちへの思いや、苦い挫折。そして、そういった思いを抱えて生きることの、孤独。それは、自分をごまかさないで生きていれば、だれもが知っている、だれもがいずれ知ることになる、普遍的な痛みだ。

須賀先生の本は、人々のそんな生きる痛みに、静かに寄り添う。それが、先生の本が今も幅広く読者を惹きつけるゆえんではないか。

だれも声高には言わないが、われわれはみな、魂に効くような物語をもとめている。そういうものを読みたいというのは、心の奥底からのニーズだ。須賀先生が訳されたイタリアの詩人、ウンベルト・サバの詩の一節のように、「人生ほど、生きる疲れを癒してくれるものは、ない」のである。

 

須賀先生をお見かけしたのは、祐天寺の駅のホームが最後だった。そのときは声をかけられず、その後、お目にかかる機会もないまま、先生は亡くなってしまった。先生風にいうと、先生はアスフォデロの野をわたって、向こうに行ってしまわれた。

(注:先生は著書、「ヴェネツィアの宿」のなかで、ご主人の死を「アスフォデロの野をわたっていった」と暗喩されている。これは「オデュッセイア」の一節で、アスフォデロというのは忘却を象徴する草だそうだ)。

 

悲しいし、残念だけど、先生をうしなった、という感じはしない。なぜなら、亡くなったあともずっと、先生のご本を通して、先生とお話している気がするからだ。

先生のご本を読みながら、「こんなことを考えておられたのですね」とか、「さぞ、おつらかったでしょう」など、心のなかでつぶやいている。また、「いくらなんでも、まじめすぎます」、「先生、ごめんなさい、生まれ変わったらもっとちゃんと勉強します」などなど、先生と対話している気になっている。

大学時代、授業を受けていたころより、著作を通して、より、先生のことを知ったし、先生が近い存在になった気がする。ひとりよがりかもしれないが、本は、生死を超えて人と人をつなぐ、と実感している。

 

本から顔を上げると、須賀先生のなつかしい顔がまぶたの裏に浮かぶ。その遠いまなざしが追っていたものを、先生はきっと、手に入れられたにちがいない。こんなにもたくさんの、世代もちがう読者が、今も先生の作品を読みつづけているのだもの。不詳の教え子はそれが、ただただ、誇らしい。

でも、そんなことを言ったら先生に、それより自分のことを考えなさい、と叱られそうだ。考えてはいるんですけど…。先生のように自分にきびしくはできないので、ぼちぼちしか行けません…。

しかたないなぁ…。先生が、あの、遠いまなざしのまま、やわらかくほほえむのが、見えるようだ。

 

〜〜終わり〜〜

 

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ABOUT ME
湊夏子
長いイタリア暮らしを経て、帰国。日英伊の3か国語でメシの種を稼ぎ、子どもを育てているシングルマム。