旅に出て、その地に拒まれる、あるいは、なにしに来たかときびしく問われる。インド、ジャイプールで、そんな感覚におそわれた、と、前回書いた。
今回は、そのつづき。ジャイプール同様、軽いアイデンティティー・クライシスともいうべき感覚に陥った、南イタリアの内陸部、マテーラでの旅の記憶だ。
マテーラはイタリア南部、バジリカータ州の内陸地に位置する小さな町。サッシ(石、岩)と呼ばれる、渓谷の斜面の岩肌を掘って作られた洞窟住居群で知られる。
作ったのは、イスラム教徒の迫害から逃れてこの地に移り住んだ、ギリシャなど、東方の修道士たち。8世紀から13世紀にかけ、こつこつと掘られていったその数は、3,000から4,000にもおよぶ。
まるごと岩でできた灰色の町は、まるで異界のような摩訶不思議な雰囲気で、訪れる者を魅了する。
マテーラへは取材旅行で行った。20数年前のことだ。ある機内誌にイタリアを紹介する記事を書いていたことから、プレスツアーに呼んでもらった。1993年に世界遺産に登録されはしたものの、まだ観光客誘致がすすんでいなかった。そんな理由で企画されたツアーだったようだ。
参加者はほとんどがイタリア人。外国人プレスは数えるほどで、日本人はわたしだけだった。突然決まったツアーのようで、前知識を仕入れる間もなく、あわただしい出発となった。
イタリア半島を長靴にたとえると、マテーラは土踏まずのちょっと上あたりに位置する。当時住んでいたヴェネツィアから、イタリア南部、プーリア州の州都、バーリまで飛行機で飛び、そこから内陸地のマテーラまでバスに乗った。
南イタリアの強烈な日差しに目を細めながら、車窓から外を眺めていると、荒々しい渓谷が見えてきた。ところどころ石灰岩質の岩肌が剥き出しで、緑もどこか赤茶けている。見慣れた北イタリアの、おだやかな緑の平野とはがらりとちがう。どこか外国に来たようだ。
マテーラの近くまで来ると、山の斜面にいくつもの洞窟が、ぽっかりと黒い口を開けているのが見えた。こわいおとぎ話に出てくるような、奇怪な光景だと思った。
ホテルにつくと、マテーラ在住の、日本の商社の駐在員の奥さんという方が、「こんな未踏の地まで、はるばるようこそ」と、迎えてくださった。「未踏の地」という言葉が印象的だった。下調べする間もなく来てしまい、知らなかったが、そんな僻地なのか?
それどころか、かつては政治囚の流刑地であり、「イタリアの恥」と呼ばれた、貧しさを象徴する地域だったことを、のちのツアーの説明で知ることになる。
マテーラには旧石器時代から人が住んでいたようだ。洞窟住居群は、冒頭で述べたように、ギリシャからやってきた修道僧たちによって、8世紀から13世紀にかけて作られた。彼らは祈りと生活の場所として、岩を掘り、洞窟教会、洞窟住居を作っていった。
その後、オスマン帝国に追われたアルバニア人やセルビア人も移住してきて、繁栄した時期もあった。1663年にはバジリカータ州の州都に選ばれたが、1806年に隣のポテンツァに州都が移されると、次第にさびれていった。
19世紀、近代化の波のなか、余裕のある人たちは洞窟住居を捨て、平地に移ったため、洞窟住居には貧しい人たちだけが取り残された。町は荒廃し、スラム化する。小作農民など住民は、暗くてじめじめした小さな洞窟のなかに、家畜といっしょに住んでいた。20世紀半ばまで電気も水道も通らず、衛生的に劣悪な状況で、これがマテーラが「南イタリアの恥」と呼ばれたゆえんだ。
イタリア人プレス関係者たちといっしょに、洞窟教会、洞窟住居をまわる。岩でできているためゴツゴツとしており、採光がむずかしいため、なかは暗い。世捨て人の修道士たちが作ったというのがうなずける、きびしい雰囲気だ。
また、農民博物館というところも見学した。鋤や鍬など昔の農具が見られるほか、当時の小作民たちの暮らしぶりを伝える、セピア色の写真なども展示されている。
イタリア人プレス関係者たちはそれらを興味深そうに眺め、イタリア南部の歴史や政策について熱心に語り合っている。彼らがレーヴィ、レーヴィと口にするので、カルロ・レーヴィという作家のことを初めて知った。
カルロ・レーヴィは、マテーラの名を世界に知らしめた作家。1902年、北イタリア・トリノ生まれのイタリア系ユダヤ人で、医者、画家、そして活動家でもあった。反ファシズム運動に関与したことで逮捕され、1935年から36年にかけ、マテーラに軟禁された。
レーヴィは豊かな北イタリアの暮らしからは知る由もなかった、南イタリアの貧困にあえぐ住民たちの過酷な生活を知り、のちに「キリストはエボリに止まりぬ」という本を書いた。
エボリというのはマテーラから170kmほど北東にある、ナポリに近い小さな町で、キリストが訪れたという記録が残っている。キリストもエボリまでは訪れたが、辺境、マテーラまでは足を踏み入れなかった、マテーラはそんな、救世主にさえ見捨てられた土地であることを、レーヴィは表題にこめた。この地方の貧困と過酷な生活を記したこの本は評判を呼び、南部問題についての全国的な議論に火をつけることとなった。
イタリア人ジャーナリストたちは当然、こういった歴史を知っている。ローマやミラノなど大都会から来ている彼らにとっても、なじみのない場所ではあろうが、それでも自分たちの国の一部だ。農民博物館を見学しながら、彼らが熱い議論をかわすかたわらで、わたしはだんだん、しんどくなってきた。
イタリアの深部の話で、ついていけないし、入っていけない。彼らもわたしなどに目もくれない。イタリアの恥部、といわれるようなところまで、なんの関係もない外国人が入り込んできて、物好きな…。そう、思われているのではないか。おじゃま虫のようで、居心地が悪い。
二日間の短いツアーが終わり、もう帰るという朝。出発までの短い自由時間に、洞窟住居群のはずれの小高い丘の上を、ひとりで散歩した。ここは、メル・ギブソンがキリストの受難を描いた映画「パッション」を撮影したあたりだ。
映画で描かれているように、このあたりは、なんというか、荒涼とした風景だ。山も谷も岩でゴツゴツしていて、うるおいというものが感じられない。そんな山の斜面に、昔の洞窟住居の跡の穴が、いくつもぽっかりと暗い口をあけていて、気味が悪い。
そんな場所にひとり立ち、けわしい風景を見ていると、拒まれているような気持ちになってくる。よそ者よ、おまえは何者か。ここでいったいなにをしているのか…。山に、岩に、きびしく問われているようで、違和感、疎外感にさいなまれる。
そう、自分はよそ者だ。ヴェネツィアで長く暮らし、イタリアになじんだつもりでいても、ずっと異邦人なのだ。こんな縁もゆかりもない場所で、ほんとうにいったい、なにをしているのか…。
日本の、みずみずしい緑の水田が、突然、恋しくなった。
自分を生み、育んだのは、あの土地だ。あの、水が豊かに湧き出す、うるおった場所だ。そこには同じルーツを持つ、同じことばを話す同胞たちがいるのに、なぜ、自分はこんなところにいるのだろう?
異次元の世界のような、奇怪な風景に囲まれていると、自分はほんとうに存在しているのか、それさえも不確かになってきた。
しばらくそこで、こころもとなさに耐えていた。もう少ししたら、家に帰る。ヴェネツィアには家があり、家族がいる。もどれば、いつもの日常が帰ってくるはず…。
バスに乗り、飛行機に乗り、ヴェネツィアにもどった。住み慣れた場所、生活をいとなんでいる場所に身を置くと、マテーラで感じたような疎外感は消えていた。異邦人だということも、忘れてしまった。かわりに、変わりばえのしない日常がもどってきた。
あれから、長い年月が過ぎた。イタリアを去り、日本に帰国してからもずいぶん経つが、今も、マテーラで感じたこころもとなさは、はっきり覚えている。
あの、自分の存在の確かさがゆらぐ感覚。自分が何者でどこにいるのか、混乱し、不安になったこと。よそ者として生きるさびしさ…。
マテーラの怪異な景観、時空を超えた雰囲気は、人になにかを問いかけ、ふだん感じることのない感覚をよびさます力があった。それは足元をすくわれるような、ちょっとあやうい経験だった。
だから、あのときは思った。もう、マテーラのような場所には行きたくない。そういう、存在の不安なんてものに揺すぶられるのは、もう、ごめんだ。日々の暮らしに専念しようと。
しかし…。
時間がたつと、またぞろ、倦怠が舌を出す。
そろそろ、旅に出たくなってきた。それも、インドやマテーラで経験したような旅に。そして、生きているということ、存在していることのふしぎに、もう一度、震えてみたい…。
あぶない。また虫が出てきたのかな。そんなものは、もうとっくの昔に手なづけた。そう、思っていたのに…。
〜〜〜
補記:マテーラは筆者が訪れた二十数年前とはすっかり変わり、現在では観光地として内外からたくさんの観光客を集めている。1993年の世界遺産登録後、徐々に、観光業に従事する人たちがもどり始め、少しずつ復活していった。2000年から始まったEUの構造政策で、南部開発の助成金をもとに、現在のマテーラは観光地として発展をつづけているようだ。
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UnsplashのFreysteinn G. Jonssonが撮影したカバー写真
UnsplashのFreysteinn G. Jonssonが撮影した山の斜面の洞窟の写真
Mele CoronatoによるPixabayからの画像