イタリア人的考え方

コッコレ − イタリア人の必須栄養素

 

昔、映画007のロケで長期アメリカに滞在中だったイタリアの女優、マリア・グラツィア・クチノッタが、イタリアが恋しくないかとジャーナリストに聞かれ、インタビューでこんなふうに答えていた。「早くうちに帰って、まずダンナに『コッコレ』してもらいたい」

この「コッコレ」という言葉、「ヨシヨシする」くらいの意味合いなのだが、イタリアではよく使う。子どものころ、おかあさんが髪や背中をなでてくれたり、いい子ね、とほめてくれたり、やさしく甘えさせてくれたことがあるでしょう?コッコレはまさにそれ。かわいがる、愛情を注ぐ行為をさす。

イタリアではコッコレしてもらいたいのは子どもだけじゃない。クチノッタのような大人の女も、いい年をしたオッサンも同じ。

「コッコレが足りてない」と催促する男に、女がやさしく背中をさすってあげたり。妻がイライラしているのに気づいた夫が、「コッコレしてあげるから、おいで」と、抱きしめてやったり。コッコレは生きていくうえでの必須栄養素、と認識されているのだ。

また、言葉でのコッコレも大切。「好きだ」、「大事に思っている」、「すてき」などの言葉が、日常的にふんだんに使われる。イタリア人にとっては言葉もまた、スキンシップのひとつなのだろう。伝統的に「秘すれば花」、「男は黙ってサッポロビール(古ッ😅)」といったメンタリティーの日本人とは、まさに真逆だ。

日本人男性と結婚した、知り合いのイタリア人女性、カルラは、「愛してる?」と聞いて夫から返ってきた「わかってるだろ」の答えに、物足りなさをおぼえずにいられなかった。彼女にとってそれは、わかってはいても、何度でも言ってもらいたい言葉なのだ。

小さいときから親にくりかえしかけてもらった「好きだよ」という言葉。それは空気のように、太陽の日ざしのように、あってあたりまえのもの。それがないと、そこはかとなく、うすら寒くなってくる。

「血が足りない吸血鬼みたいに、だんだん生気がなくなっていったの…」と、当時の自分を自嘲気味に笑うカルラ。この夫婦は結局、別れた。妻のほうが離婚を求めた。「イタリア人の自分にはもっとコッコレが必要だった。肉体的にも言葉でも、もっとふれてほしかった」のだそうだ。

不安な時やさびしい時、人の温もりを感じて安らぎたい - そういう人間の本質的な欲求に対して、イタリア人は驚くほど素直だ。そして社会にも、そんな欲求をもっともだと受け入れる寛容さがある。日本で「コッコレが足りなかった」ことを離婚の理由にあげれば、甘えるんじゃない!と叱られそうだが、イタリアでは通りそうだ。

ふれあっていたいのは親子も同じ。友人のクリスティーナはもう四十を過ぎているが、「親、とくに母親のことは、背中をなでたり、肩を抱いたり、なんやかやしょっちゅうさわってる。だって、おかあさんだから、さわらずにいられない」

彼らの根っこには、人というのはもろい生き物だ、という認識があるようだ。そんなもろい生き物どうしがつくる関係などというのは畢竟、もろいから、「好きだ」を連発し、コッコレで温もりを伝え合い、守っていこうとする。そんなふうにデフォルト設定されているのかもしれない。

人間関係を、特に夫婦や親子といった特別親しい間柄におけるそれを甘く見ない。そういう意味では、彼らは案外、醒めた現実主義者なのである。

 

*当記事はAERA2000年2月14日の掲載記事『コッコレは人生の栄養素』を書き直したものです)

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トリリンガル・マム
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