イタリア人的考え方

トスカはなぜ苗字で呼ばれるのか

 

椿姫、蝶々夫人、ラ・ボエーム…。どのオペラのヒロインがいちばん好き? 以前、そう、イタリア人の友だちにたずねたら、彼女はしばらく考えて、トスカ、と答えた。どうして、とたずねると、「perche’ Tosca reagisce. (トスカは戦うから)」と。

ふうん…。そのときはそれ以上突っ込んで聞かなかった。しかし、その後、イタリア人はreagireという言葉をよく使うことに気づいた。reagireは、反発する、反抗する、反応してアクションを起こす、といった意味の動詞である。

つらい目にあったとき、不運に見舞われたとき、ただ落ち込んでいるだけの人間に、イタリア人は同情はしても敬意は抱かない。自発的に行動を起こして、はじめて認められる。

それを実感したのは、以前働いていたイタリアでの職場でのことだった。上司からパワハラを受けている人がいた。廊下で顔を合わせても思いつめた表情で、挨拶もしない。心配だね、とわたしが言ったら、別の同僚が言った。「Deve reagire (手をこまねいていてはダメだ。立ち向かわなきゃ)」と。

その突き放すような口調に、ちょっとショックを受けた。もう少し同情というか、連帯というか、いっしょに考えてあげてもいいじゃないかと。でも、同僚は、自分からアクションを起こさない彼女にイライラしているふうだった。

 

で、先日、トスカを見る機会を得た。ボローニャ歌劇団の東京公演だ。

実はトスカは初めてではない。昔、ヴェネツィアのフェニーチェ劇場で見たことがあるのだが、いったいなにを見ていたのか、恥ずかしながらあまり記憶に残っていない。

それに比べ、今回はすごく楽しめた。字幕つきで、いい席だったことも大きかったが、天気も体調もよかった。時間的にも気持ちにも余裕があり、楽しい連れもいっしょだった。そういうことが相まって、いいタイミングでこの作品に出会えたということなのだろう。じっくり味わえたので、新たな気づきや発見があった。

 

いちおう簡単にあらすじを説明すると、時は、ナポレオン率いるフランス軍が欧州を席巻していた1800年頃。ローマでは共和制が崩壊し、王政のもとで恐怖政治が敷かれていた。

主人公は三人。有名な歌手のトスカ。その恋人で画家のカヴァラドッシ。そして、権勢を振るい、ローマの人々を次々と投獄する冷血の警視総監、スカルピア。

ある日、カヴァラドッシが、脱獄していた政治犯の友人を教会にかくまった。そこに訪ねてきたトスカが、彼が別の女性とひそかに会っているのではないかと勘違いし、嫉妬にかられる。その嫉妬心を巧妙に利用して、警視総監のスカルピアが政治犯の居所をつきとめ、はてはカヴァラドッシも逮捕され、投獄される。

カヴァラドッシは拷問され、死刑判決を受ける。トスカは恋人を助けてくれるよう、スカルピアに嘆願するが、スカルピアはトスカに情欲を燃やし、俺のものになれば助けてやると、権力を盾にトスカに迫る。

卑劣な取り引きに憤り、苦悩するトスカ。恋人を救うために苦渋の決断をし、恋人と国外へ逃げるための通行証をスカルピアに書かせるが、いざスカルピアに触れられると耐えられず、そこにあったナイフでとっさにスカルピアを刺し殺してしまう。

呆然とするトスカ。しかし、急ぎ、処刑場に向かわなければならない。恋人のカヴァラドッシの処刑がまもなく行われる予定だが、スカルピアとの取り引きで、銃は空砲で、恋人は助かることになっていた。ふたりで国外に出て、自由に生きるのだ。

しかし、銃が発砲されると、カヴァラドッシは死んでしまう。弾はこめてあったのだ。恋人の骸にすがり絶望するトスカに、スカルピア殺しで警察の追っ手が迫る。トスカは「神の御前で」と叫び、城壁から身を投げる…。

 

まず、あの有名なアリア、「Vissi d’arte, vissi d’amore」。これはトスカがスカルピアから迫られ、苦悩する場面で歌われる。この和訳だが、テレビコマーシャルをはじめ、「歌に生き、恋に生き」という訳語をよく目にしていたので、てっきりこれは恋をうたった歌だと思い込んでいた。が、今回見てみて、それが間違いだったことがわかった。

この場合における「amore」は恋ではなく愛、それも神への愛で、このアリアは恋の歌ではなく、トスカの、神さまへの、いわば恨み節だったのだ。

わたしは歌手という仕事を一生懸命にやってきました。だれにも悪いことはせず、困った人には手を差し伸べ、愛を実践してきました。なのに、神さまはなぜ、わたしにこのような仕打ちをするのですか、と…。

実際、第一幕で、トスカは信心深い女性として描かれている。恋人と会っているときでも、礼拝堂の聖母さまに花を捧げることは忘れない。また、恋人との逢瀬をものすごく楽しみにしていても、仕事が長引くと仕事を優先させている。トスカにしてみれば、わたしはこんなに神の教えに忠実に生きてきたのに、なぜ? 神さま、なぜわたしをこんなひどい目に合わせるの?という感じ。

また、イタリア人の女友だちが以前、トスカを「運命に屈せず、戦うから好き」と評していた理由が、今回よくわかった。確かにトスカは強い、骨のある女性だ。

権力を盾にセクハラをしてくる警視総監スカルピアに対し、トスカは堂々と立ち向かう。それも、懇願、交渉、駆け引きと、あらゆるテクニックを駆使する。また、スカルピアに身を任せろと迫られている絶体絶命の瞬間に、「先に、国外に自由に出ていける通行証を書いてよね、彼とわたしのふたり分」と要求する冷静さ。知的で、胆力のある女性なのだ。

処刑場に恋人を迎えに来るときも、馬車と宝石とお金をちゃんと用意している。経済力も行動力もあわせ持っている。

 

と、ここでふと、トスカがファーストネームではなく、苗字であることに気づいた。トスカにはフローリアという名前があるのに、なぜ苗字で呼ばれるのか。オペラのヒロインはふつう、ヴィオレッタとかミミ、カルメン、マノンと、名前で呼ばれるのが普通なのに…。

私見だが、それはおそらく、この作品のテーマが恋ではないからだろう。トスカは恋する女でもあるが、有名な歌手という、社会的な影響力を持つプロフェッショナルでもある。イタリアでも人を社会的、職業的な文脈で呼ぶときは苗字が使われるから、ヒロインが単なる恋する女として描かれるのではなく、全人格的に描かれているこの作品では、トスカという苗字のほうがふさわしいということだと思われる。権力に抗い、過酷な運命に勇敢に立ち向かっていくヒロインの話のタイトルが「フローリア」では、やはりなんとなく締まらない。

 

トスカは、しかし、ただカッコいいだけでなく、弱点も、滑稽な点もしっかり描かれていて、それが彼女の人間的魅力に深みを与えている。

たとえば、第一幕。トスカは恋人のカヴァラドッシに、ほかに女がいるんじゃないかと迫る。カヴァラドッシは否定するのだが、それでも執拗に探りまくる。そのしつこさに、ちょっと引いてしまった。深く神さまを信じているんだから、恋人のことも、もっと信用してあげればいいのに…。

幕間で会ったイタリア人の知り合いにその話をすると、「宗教心が強くて嫉妬深い。ハッハッハ!それ、イタリア女性そのものだよ」と笑っていた。なるほどね。

また、トスカには秘密を守れないという弱点もある。それと嫉妬深さがあだとなり、スカルピアに利用され、逃亡中の恋人が逮捕されてしまう。

ラストシーン。恋人は死んでしまい、自分も逮捕されそうになったトスカは、城壁から身を投げる。キリスト教徒は自殺が禁じられているはずなのに、ましてトスカは敬虔な信者なのに、自らの命を絶つという選択をする。そのとき、「神の御前で、スカルピア」と叫ぶのだ。死ぬとき、いとしい恋人の名前を呼ぶのではなく、憎い敵の名前を叫ぶとは、いったいどんな心境なのか。

これも私見に過ぎないが、これは、神の御前に出て、神さまに裁いてもらおうじゃないか、という意味か。スカルピアを殺した自分も悪いけど、殺させるような状況に追い詰めたスカルピアも悪い。神さまもあんまりだ、というようにわたしには聞こえた。

いい悪いは別として、トスカは最後までトスカだ。まっすぐで、ひたむきで、神さまにさえ挑んでいるように思える。

 

最後に、オペラの話なのに、演奏や歌手の声の話ができなくてごめんなさい。オペラは好き、特にイタリアン・オペラは大好きだけど、技術的なことはよくわからない。だから今回の公演がすごくよかったのか、普通だったのかはわからない。

でも、わたしは十分堪能した。

トスカ役のマリア・グレギーナのソプラノは、高音がすごくて、ヒロインの怒りや悲しみといった感情が悲鳴のように生々しく伝わってきた。「歌に生き、愛に生き」のアリアも、床にへたりこんだ姿で切々と歌い上げ、絶望のなかで神に必死で問いかけるトスカの気持ちに共感できた。

警視総監のスカルピア役のアンブロージョ・マエストリは、その悪漢ぶりと貫禄で圧倒的な存在感を示した。

また、恋人カヴァラドッシは、ちょっと影が薄かったけれども、まもなく銃殺されるという夜明けに、トスカとの愛を思って泣きながら歌う『星は光りぬ』(伊:E lucevan le stelle)は痛切で、泣きそうになった。

トスカの人間的魅力に魅了され、声の芸術に酔いしれた一夕であった。

 

ー終わりー

 

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UnsplashKenny Filiaertが撮影したカバー写真(これはイメージ写真です)

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