旅に出て、その地に拒まれる。あるいは、なにしに来たかときびしく問われる。そんな気持ちになったことはないだろうか。わたしは、ある。
一度はインド、ジャイプール。2度目は南イタリアのマテーラだった。まずはインドの旅について、書いてみたいと思う。
挑発を受け、インドへ
インドへは大学の卒業旅行で行った。三島由紀夫の「人にはインドに行ける者と行けない者がいる」という言葉に挑発され、行ってみようと思った。
生まれて初めてのひとり旅。地球の歩き方をくまなく読んで下調べをし、このために購入した大きなリュックサックを背負って出かけた。昭和62年のことだ。
インドで遭遇したできごとは、わたしにはことごと奇想天外だった。先入観や価値観をひっくり返すようなインパクトを持っていた。時代もあったと思う。今から36年も前、インターネットが普及するずっと前の話だ。インドが今日のように躍進するとは、まだだれも予想できなかった。AIが跋扈するこんなIT社会の到来を、だれも想像だにしていなかった。
これからご紹介する旅のエピソードは、だから、昔話として読んでもらえばいい。インドという特異な国の、ある時代の横顔。それがひとりの旅人におよぼした力についての、とりとめのない回想である。
いざ、出発。家族の心配をよそに、デリー行きの飛行機に乗った。
機内では、何度もインドに旅しているという男の人と席がとなりだった。その人がいろいろとアドバイスをしてくれるのだが、やたらこちらの不安を掻き立てることばかり言う。
機内で出されたピーナッツを「これ、非常時用に持っていったほうがいい」とか、「インドでは絶対怪我をしちゃいけない。インドの病院では包帯を使いまわしするから」、「日本に帰ったら髪の毛にパーマをかけたほうがいい。頭についた虫がパーマ液で死ぬ」
旅への期待ではずんでいた胸が、次第にしぼんでくる。飛行機が着くころには、インドじゃなくてヨーロッパにしとけばよかった、と、後悔しているような始末だ。
それでもおずおずとタラップを降りた。デリーの空港は、今まで嗅いだことのない怪しい匂いがする。しかもやたら暗くて人がいない。そのうち、目が暗さに慣れてくると、闇のなかにいくつもの目が白く浮かんだ。ゾッとして、思わずギャッと叫んでしまった。
どうしよう…。不安でこのまま引き返そうかとも思ったが、せっかく来たのにそれも情けない。こわごわ市内行きのバスに乗ったが、運転手が吸っているたばこが変な匂いだ。ひょっとして麻薬? そんな疑いが頭をもたげる(あとでこれはビディという名の、インドでよく吸う普通のたばこだったことが判明した)。もう泣きそうになったが、必死で自分を鼓舞した。インドに行ける者になりたいと望んだのだから、あとには引けない。
目的のゲストハウスにたどり着き、バックパッカーと呼ばれる人たちを初めて見た。フランスやスイスといった、ヨーロッパ系の人が多かった。リラックスして談笑している様子からして、インドには何度も来ているようだ。わたしもいっぱし、バックパッカーの格好はしていたものの、中身は初心者。それを見破られたくないと、慣れたふりを装いながら、横目で彼らのやることなすことを見て、まねた。
翌朝、おそるおそるデリーの街に出ると、ありとあらゆる種類の音、匂い、色に、五感を襲われた。バイク、車、人、自転車、バス、リクショー…それらに混じり、牛ものんびり歩いている。
おっかなびっくり歩を進めると、足元のほうから声がする。視線を下に向けると、四肢がない乞食が道に寝そべっている。
びっくりして、思わず逃げた。振り向くと、なんと、背中で這って追いかけてきている。こちらが呆然としている間に、すぐに追いつかれた。
乞食はインド訛りの英語で、喜捨するとどんなに功徳を積めるか、ビジネスマン顔負けの論理で滔々と説く。物乞いの卑屈さはかけらもない。それどころか、おれはあんたに功徳を積む機会を与えてやっているんだと、むしろ上から目線だ。位負けしていくらか渡すと、ようやくあっちに行ってくれた。初日から、もうぐったりだ。
デリーの観光はそこそこにすませ、アゴラに向かった。お目当てはもちろん、タージマハール。インドの王様が亡くなった愛妻のために作った、巨大な大理石のお墓だ。
その白亜の霊廟が、夕日でピンクに輝くのに見入っていたら、高校生ぐらいの年ごろのインド人の少年が近づいてきた。ボーイを買わないか、とわたしに訊く。ボーイ、boy? どういう意味?とたずねたら、自分を指差し、ボーイを買わないか、という。えっ?ひょっとして、わたしにあなたを買わないかと聞いているの?
絶句して、急ぎ足で立ち去った。意味がわからない。なぜわたし? なんで二十歳そこそこの若い女に、ボーイを買わないかなどと声をかけるのか。
この謎を解くヒントとなるようなことが、後日、あった。街を歩いていて、インド人の若者に言われたのだ。「マドンナに似てるね」と。
マドンナとは、歌手のマドンナのこと。当時はマドンナの最盛期で、「ライク・ア・ヴァージン」などの歌が世界的にヒットしていた。
いったいどこをどう見たら、金髪碧眼のマドンナと、のっぺり顔の東洋人のわたしが似ていると思うのか。理解に苦しんだが、インドを歩きまわり、現地の人とふれあううち、彼らの思考の道筋が少し見えてきた。マドンナに似てるね、というのは、Tシャツにジーンズという格好の、外国人の女であることを指していたのだと思う。
日本人がサリー姿の女性を見ても、インド人なのか、ネパールの人なのか、若いのか年をとっているのか、ぱっと見ではわからない。インド人の若者にとっても同様で、まず目につくのはTシャツにジーンズという服装。それを着ているのがアメリカ人なのか、日本人なのか、そんな細部までは目に入っていないのだ。当時、インドでは女性はみんなサリーを着ていた。着ていないのは外国人だけ。「マドンナに似ている」というのは、「外国人なんだね」ぐらいの意味だったのではないか。
タージマハールでボーイを買わないかと声をかけられたのも、そんなところに理由があったのではないかと思われる。ふつう、若い女はボーイを買ったりはしないが、インド人の少年の目には、外国人の年齢なんてわからない。サリーを着ていない=外国人の女、という大きなくくりだけに着目し、声をかけていたのではないか。
このように、インドの人、それも路上で出会う市井の人々の発言は、わたしには意味不明なことが多かった。たとえば、道を聞いて、言われたとおりに行って合っていたためしがない。
最初は、デタラメなことを言って、と怒っていた。が、だんだん、そうではないようだ、と思えてきた。どうも彼らは、知りません、ということにためらいというか、抵抗があるようなのだ。
こちらの質問に答えたい、という好意的な気持ちから、正直に知らないと言えない。それで、あっちとか、こっちとか、適当なことを口走ってしまう。一度、売店の店主にまちがった道を教えられたことを責めたら、ものすごく恐縮してうろたえていた。そんな様子から、知らなくても適当に答えてしまうのは、決していいかげんなのではない。彼らなりの、こちらの質問に答えたいという精一杯の厚意なのだということが、なんとなく汲み取れた。
ベナレス行きの夜行電車では、せっかくとった指定席には、インド人の女の人が子どもを抱いて座っていた。わたしの席なんですが、と言っても、ドラマチックなジェスチャーで子どもを指差して懇願され、席を空けてもらえない。しかたなく、立ったまま乗っていたので、一睡もできなかった。
電車がベナレスに着いたのは夜が明ける前だった。街はまだ眠っていて、人影がない。寝不足でふらふらしながら、地図を片手にゲストハウスを目指して歩いていると、闇のなか、ひたひたと人の足音のような音が聞こえる。同時に、地の底のほうから、なにかうごめきのようなものが聞こえてきた。
なに? なんなのこれは…? 恐ろしくて身がすくむ。一刻も早くゲストハウスに辿り着きたい。背中のリュックが重かったが、怖くて必死に足を速めた。
ゲストハウスはガンジス川の近くだった。近づくにつれ、人影が増えてくる。先ほどの、ひたひたという足音の謎がとけた。ガンジス川に巡礼に行く人々の足音だったのだ。
リュックサックを置き、わたしもガンジス川に向かった。河岸の手前には群衆といえるほどの人だかりができていて、みんなぶつぶつとお祈りを唱えている。わかった! 先ほどの、地の底からうごめくような音の正体はこれだったのだ。どういう音響なのかわからないが、それは少し離れた場所まで、石畳を通じて伝わっていたらしい。
川に目をやると、人々は沐浴をしたり、歯を磨いたり、お祈りをしたりしている。線香の匂い、献花の匂い、赤、黄、青といったサリーの色、オレンジの僧衣。楽器の音。犬の鳴き声、子どもの泣き声、物売りの声…。
無数の生のざわめきのすぐそばで、遺体を火葬している。こんな野外で、と思ったが、ガンジス河岸で火葬してもらえるのは、それなりに裕福で恵まれた人なのだと、あとで知った。
遺体が焼かれるのをずっと見ていた。焼きかけのからだは、ときどき曲がって起き上がる。それを焼き男が、棒のようなもので押さえつける。
火葬が終わると、野犬が近づいてきた。焼け残った肉が目当てのようだ。汚い身なりの子どもたちも近づいてくる。近くにいたヒッピーが、あれは金歯とか、金目のものが残ってないか探しているんだよ、と教えてくれた。
死んだら、このように灰になる。時に野犬に食われ、身につけていたものも奪われる。一方、生きている犬や子どもは、死者には不要となった肉や金歯で腹を満たし、今日一日の命をつなぐ。
ふだん目にすることのない、なまなましい死、そして生の姿…。ショックを受けるかと思ったが、ふしぎに心は静かだった。生と死がつながっていることが感じ取れた。どんな悩みがあっても、それは限られた時間のなかのこと。いつか自分も死の静けさのなかに帰っていく…。死に触れることで、帰るところがあるという感覚にめざめたのはふしぎだった。
その後、おなかをこわして、二、三日ゲストハウスで寝込んだ。それまで大事をとって温かい紅茶しか口にしなかったのだが、誘惑に負け、冷たいラッシーを飲んだらてきめんだった。
しばらくひとりで心細くしていた。窓から街の騒音が聞こえてくるが、部屋のなかはわたしだけ、静かだ。ここで死ぬのかな、なんて、腹下しぐらいで弱気になっていたら、親の顔が目に浮かんだ。が、ありがたいことに、四日目には治った。
体調をこわしたのは、幸い、そのときだけだった。以降は順調で、次第に路上の旅にも慣れていった。カジュラホでは空中浮遊するヨギを訪ねてみたり、ゴアでヨーロッパからのヒッピーたちと交流したり。自分もそこそこのバックパッカーになれたかも。そんな自信が生まれてきたころ、ラジャスタン州の州都、ジャイプールに着いた。
ジャイプールはアンペール王国のマハラジャが建設した、城壁に囲まれた古都。赤砂岩を使用した城塞や宮殿など、華麗なピンクの建物が並ぶため、ピンクシティーとも呼ばれる。砂漠が近いことから、ラクダや象もふつうに街路を行き来している。エキゾチックな魅力満載の町だった。
城壁に囲まれた旧市街では、透かし彫りのうつくしい風の宮殿や、王が居城内に建てたという天文台を見学。また、市街にある中世のお城、アンベール城に行った際は、お城までの坂道を象に乗せてもらった。
それでも飽き足らず、町外れの丘の上にある、昔の要塞まで行くことにした。そこからの眺めが抜群だと、ほかのバックパッカーに聞いたからだ。バスはないから、リクショーで行くしかないという。教えられた通り、リクショーを雇った。
リクショーの車夫は大柄な、体格のいい男だった。若くはないが、年寄りでもない。三十代前半、といったところか。交渉の英語は上手だが、むだな口は聞かない。交渉が終わると、車夫はわたしがうしろの席に乗り込むのを助けてくれた。そして前部の自転車のサドルにまたがり、力強く漕ぎ出した。
途中で腹ごしらえのため、食堂のようなところに寄ってもらった。車夫にも、なにか食べますか、と聞いたら、何もいらないという。ただ、ローズウォーターだけは欲しいという。ローズウォーターがなんなのか知らなかったが、彼のためにそれを注文した。
むくつけき大男が、ローズウォーターという、乙女が好みそうな名前の飲み物を所望したのが奇異だった。名前が示すとおり、本当にバラのエッセンスの入ったソフトドリンクなのか。それとも、実はお酒かなにかなのか。たずねはしなかったが、ローズウォーターが変に引っかかった。
リクショーはジャイプールの町を駆け抜け、要塞の入り口に着くと、頂上へのゆるやかな坂道を半分ほど登った。が、そこから先は階段だった。ここからは歩くしかない。ひとりで行くから待っていて、と言うのだが、車夫は自分も行くという。ひとりだと危ないからついていく、と。
ほんとうだろうか。人気のないところに連れ込んで、乱暴しようとしているのではないか。頭のなかで危険信号が鳴った。知らない男とこんな人気のない場所でふたりきりになるのは、なにがなんでも避けるべきだ。
けっこうです。いいえ、ついていきます。けっこうです。いいえ、ついていきます…。
しばらく押し問答したが、車夫は譲らない。困ったが、せっかくここまで来たのだから、どうしても上まで行きたい。わたしは無視して階段を登り始めた。そのうしろを、車夫がついてくる。
しばらく登って、頂上についた。丘の上から遺跡の全景と、ジャイプールの街が一望できる。そのさらに先には遠く砂漠が広がっている…。そのすばらしい眺めに、我を忘れた。はるばるこんな遠いところまで来た甲斐があったと思った。が、すぐ、うしろに車夫がいることを思い出し、その存在に心を乱された。
彼はわたしの2メートルほどうしろに、黙って立っている。景色に見入っている感じでもない。なにを見ているのか、なにを考えているのか、わからない。だだっぴろい廃墟の、風が吹く丘の上には、わたしと彼しかいない。重い沈黙があたりを制している。
わたしの視線はずっと遠景に向けられていたが、景色を愛でる余裕はもうなかった。不安が高まり、動悸が激しくなってきた。うしろにいるリクショーの車夫から、きびしく責められているような気がする。
何しに来た? 外人のくせに、それも若い女のくせに、生意気にもひとりで俺たちの土地にやってきて、好き放題、物見遊山をしている…。
とがめられ、手ひどい目に遭わされるのではないか。そんな妄想に襲われた。ここで殺されても、だれにもわからない。
バックパッカー歴が三週間になり、ちょっと自信がついていたのが一気に吹き飛んだ。目の前の光景はうつくしいが、ことごとく異境の風景だ。自分の日常との接点はどこにもない。そんなところに自分は立っているが、はたしてそれは、本当の自分なのだろうか…。そんな変な感覚に見舞われ、車夫に襲われなくても、このまま自分が崩壊してしまいそうだ。
ひとつ深い呼吸をして、必死で恐怖を追いやった。そして振り返り、運転手の目を見て、「もういいです。帰りましょう」と言った。彼はうなずき、わたしを先に通した。そして行きと同様、わたしのうしろについて、階段を降りた。
リクショーを停めてあった場所につくと、車夫はまた、わたしが乗り込むのを手伝ってくれた。そしてサドルにまたがり、帰りの道を漕ぎ出した。
宿にしていたゲストハウスで降ろしてもらい、そこで別れた。彼はわたしがお礼を述べても表情を変えず、黙ってうなずき、去っていった。恐れていたようなことは起こらなかった。
結局、親切な人だった、ということか? 危ないというのでついてきてくれた。なのにわたしはずっと疑心暗鬼のままだった。
そもそもこういう状況を作ってはいけなかった。三週間近くインドをひとりでまわったことで、ひとりでどこでも行ける、と、いい気になっていたが、こんな思い上がりは、自分や他者をトラブルに巻き込む元凶だ。
もっと謙虚でなければならなかった。しょせん、物見遊山なのだ。その土地の人の生活を邪魔しないよう、分別とつつしみをもって行動しなければならなかったのに、自分は好奇心が過ぎた…。ジャイプールでは、苦い思いが残った。
帰国前、最後に訪れたボンベイでは、内定をもらっていた広告代理店のボンベイ支社を訪ねた。
日本の上司が事前に連絡をしてくれていたので、インド人のクリエイティブディレクターの男性と、営業の女性が歓迎してくれた。ふたりとも欧米流のマナーが身についていて、流暢な英語を話す。女性はサリーこそ着ていたが、髪をショートボブにしていて、いかにもモダンなキャリアウーマンといった感じだ。ふたりに会ってようやくホッとした。異郷から、慣れ親しんだ世界に戻ってきた感じだ。
ホテルのレストランでご馳走になったインド料理は、同じ料理でもぐっと洗練されていて、それまでゲストハウスや街の食堂で食べてきたものとは一線を画している。ひとくちにインドといっても、ちがうのだ、と、あらためて思った。
帰国して、真っ先に親に電話を入れた。生きてるよ、というと、怒られた。心配で、インド航空に問い合わせていたのだそうだ。
幸い、髪にパーマをかける必要はなく、検疫でも問題がなかった。旅の垢を落とすと、すぐ就職。働く人生が始まった。
冒頭の、「人にはインドに行ける者と行けない者がいる」という、三島の言葉。わたしは単純にもそれに挑発され、インドに行ったが、そもそも三島はこの言葉をどのような意図で発したのだろう。実は、他意はなく、なにげなく発した一言だったかもしれない。それでも、昭和の文学好きの若者にインドに向かわせるぐらい、影響力があった。今ならどうだろう。そんな理由でインドに行く若者が、まだいるだろうか。
その後、インドには行っていない。バックパッカーの旅もあれっきりだ。あまりにも印象が強烈だったせいか、もう一度行こうという気が起こらなかった。関心もほかに移ってしまった。テレビでインドのニュースをやっていても、変わったな、と思うぐらいだ。
ただ、折にふれ、ジャイプールの丘を思い出す。あのとき、廃墟に吹いていた風、あたりを制していた沈黙、視線の果てに広がる砂漠の広大さ…。
自分とつながりのない光景に圧倒され、そこにいる自分がだれなのか、一瞬、わからなくなった。リクショーの車夫に責められている気がし、自分が崩れ落ちそうになる感覚に必死で抵抗した。そのすぐうしろで、車夫は、なにを考えていたのだろう。
あのローズウォーターはなんだったのか。彼はなぜ、ついてきたがったのか。答えは今もわからない。
〜〜終わり〜〜
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