最近飼い始めた可愛いペット、「気まぐれ」。夜中の3時にシュークリームが食べたいとか、昇級試験があるけど気が向かないからもういいやとか、相手には悪いけどドタキャンとか。
これまではそんなペットは厳しく律していた。シュークリームは朝まで我慢、試験などチャンスは見逃さない、約束は必ず守らせる——。だけどどんな心境の変化か、そんなペットを甘やかしたくなってきた。
このペットの言う通りにするとあまり良くない結果がついてくる。夜中にものを食べると朝胃もたれがするし、試験を受けなきゃ損をする。ドタキャンすると信頼を失う……それなりの痛み、損失を被る。でも同時に、なんというか、してやったという変な快感をおぼえるのだ。
なぁんだ、そんなの朝飯前、自分は昔からそうだという人もいるだろう。かくいう私も若いころはそうだった。バブル期の解放的な時代の気分のなか、後先考えず能天気にやっていた。二日酔いで遅刻したり、時にサボったりしても、会社も鷹揚だったからたいして叱られもしない。
が、2007年にイタリアから帰国すると時代は一変していた。自分が日本にいなかった12年の間に日本は「失われた時代」を生き、自己責任、閉塞感、非正規といった言葉があちこちで叫ばれる世の中になっていた。
浦島の自分はこんなきびしそうな場所でやっていけるだろうか……。なんともいえない不安と恐怖に身がすくんだのをおぼえている。
予想通り、帰国後の生活はきびしかった。小一の子を夜中までシッターさんに預けて働くなか、わたしは次第に強迫観念にとらわれるようになった。火の始末や戸締りが心配で何度も確かめたり。些少なことまでまちがってはならないと思いつめたり。なにがあっても仕事を失ってはいけないと、ハラスメントを受けても声を上げることができなかったり——。
そうして縮こまって、活きが悪くなっていった。気ままにあっけらかんと生きていた昔の自分はどこに行ってしまったのか。もう自分でも自分がわからかった。
幸い、そういう時期は何年かのちに終わった。が、強迫観念的なところは多少残った。今でも戸締りなど何度も確かめてしまう。些細なことをまちがえてはいけないと確認してしまう。
でも、もういいかげん窮屈だ。
戸締りなんか忘れたっていいじゃないか。もう守る子もいなければ盗むものもない。
まちがえたっていい、なくしたっていいじゃないか。そもそも私のレベルで取り返しのつかないことなんてない。
自分が恐れているものに実体なんかないんだ。そんなものはそもそも存在しないんだ。
それより気まぐれのいうことを聞いてあげようよ。それはほんとうは気まぐれじゃないんだ。本音、自分自身の声なんだよ。それを無視してどうするの?
私の可愛いペットはこのところ、雄弁さを増してきている……。
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UnsplashのEdu Lautonが撮影した写真, Thank you!
