イタリア人的考え方

「日本人はおとなしいロボットだ」と、イタリア人に言われて考えた

Japanese criticized as robot

 

決まりに支配されたくないイタリア人。 決まりをきちょうめんに守る日本人。

日本に赴任して一年のイタリア人同僚から、日本への辛辣な批判を次々とくらっている。なかにはやつ当たりとしか思えないものもあり、そんなときはこちらもムッとして言い返すが、来日してまもない外国人の目というのは新鮮で、思いもよらないことを指摘され、考えさせられることもある。

先日、同僚はオフィスに着いたとたん、私に向かい、機関銃のごとく不満をぶつけ始めた。

「夜、カフェバーで飲んでたら、閉店だって店の人に言われた。驚いたね。まだ10時半、宵の口だぜ?さらに驚いたことに、店にいた日本人の二人連れは、素直に出ていったんだ。イタリアなら少なくともあと30分は粘ったね。日本人はなにも言わない。抵抗しない。言われた通りにやるだけ……見てて、超イラついたよ」

閉店時間が早いのはさておき、客が店のいうことに素直に従ったのが解せないらしい。

イタリアにも決まりはあるけれど、守る・守らないは状況次第ということが多い。このカフェバーの場合など、同僚からしてみると、くそまじめに守るほどのことでもない一件だというのだ。わからないでもない。日本でも個人がやっている店ならそうだろう。でも、同僚が入った店は、チェーン店かなんかだったのだと思う。店員はマニュアル通りに対応し、客もそれを心得ていて席を立ったのだろう。そう説明してみたが、納得がいかないようで、

「楽しんでいる最中に、いくら決まりだからって『はい、そうですか』って出ていけるか。それじゃ従順なロボットだ。ぼくたちは人間なんだから、なんでもかんでも決まりに支配されるのはおかしい」と主張する。

「うーむ。日本だって、いつもいつも決まりが絶対というわけではないけれど、カフェバーの閉店時間ぐらいは守ってあげてもいいんじゃない?たいしたことじゃないし」

「いや、たいしたことじゃないからこそ、あと二、三十分くらい、いいじゃないか」

「でも、店員さんは勝手に決められないんじゃない?店のオーナーとかに聞かないと」

と私が反論すると、同僚はため息をついて天を仰ぎ、

「ああ、日本人はなんでこんなに頭が固いんだ。そんなの、黙って適当にやればいいじゃないか」

「何が重要なことで、何がたいしたことないのか、人それぞれ、とらえ方がちがうもん」

「それぞれのとらえ方でやればいいじゃないか」

「それじゃ秩序ってものがなくなって困らない?誰かひとりだけ特別扱いしたら、フェアじゃないってもめるよ」

「ほかに客がいなけりゃ問題ないだろ。状況を見て決めればいいじゃないか。人間の頭は考えるためにあるんだから使おうぜ」

「……」

 

日本人は親切ではない、礼儀正しいだけという指摘

口の減らないヤツである。ではあるが、私の考えに一石を投じる効果はあった。ふと、疑問に思ったのだ。私たち日本人は決まりをきちょうめんに守ることで、まわりを気にせず、自分の気もちよさ、楽しさを追求する彼らイタリア人以上に、幸せを得ているだろうか、と。

カフェバーの話でいえば、日本式に閉店時間をきちんと守ることで、客と店がもめたりする面倒は避けられる。でも、ひょっとしたら問題なんてなにもなかったかもしれない。はなからあきらめてしまったことで、享受できたかもしれない楽しい時間を、みすみす手放してしまったとも考えられる。

一方、イタリア式に、閉店時間になっても帰らなかったとしよう。店員は見逃してくれ、楽しい時間が延び、きげんよく帰れたかもしれない。あるいは、店員ともめてトラブルになったかもしれない。またあるいは、自分はハッピーでも、店員がサービス残業になったり、上司から叱責されたりといった憂き目にあったかもしれない。イタリア式はぶれ幅が大きく、トラブルが生じやすい。

ほかの人のことや社会全体を考えると、日本式に軍杯が上がるのではないか。もめたり、争ったりしないですむからだ。しかし、個人の幸福を考えた場合、どうなのだろう。

私たち日本人の、まわりに配慮し、相手を気づかう気質。それはまちがいなく日本人の美点であり、長所だ。でも同時に、その美点が、まわりの空気を必要以上に読んだり、いらぬ自己犠牲を強いて、自分自身の首を締めてもいる。

また、まわりへの配慮や相手への気づかいといっても、気もちはともなわず、単なるエチケットとして形骸化してしまっている場合も多い。このイタリア人同僚はこうも言っていた。「日本人は親切だとよく言われるけど、ぼくはそうは感じなかった。デパートでも役所でも、親切というより、マニュアル通り、礼儀正しくやってるだけだ」

同僚が言いたいのは、その行為がその人から自発的に、彼という人間のためを思って行われたわけではない、ということだろう。しかるべく行われただけで、そこに個人的な気もちや意思はないと。

 

勤務中だって個人の人生。いつも自分色で生きているイタリア人

言われてみれば、そうかもしれない。私たち日本人は、きちんとした人、きちんと社会の決まりやマナーを守る人になるよう、小さいころから刷り込まれてきた。そうじゃないとまわりから指をさされ、仲間はずれにされたり、だめな人というレッテルを貼られるのがわかっているから、マナーで自分を守っているのだ。イタリア人同僚はそこを指摘しているのだと思う。きみたちは本音で人とつきあってないね、個人として発言したり、行動したりしてないね、と。

もちろんイタリアでも、いつでもどこでも個人の本音で生きられるわけではないけれど、勤務中であったとしても、日本よりは自然にその人個人としての顔が表に出るし、気もちや意見も口に出す。だからトラブルも多いが、人間関係が日本よりもっと多彩で、生き生きしている感じはある。

考えてみれば仕事中だって個人の人生を生きているわけだ。もっともっと自分を解放して、決まりだってもっと自分なりの解釈でどんどん変えていってもいいのかもしれない。そうしたら社会が多様化して、びっくりするようなカオスが待っているかもしれないけど(≧∇≦)、ひょっとしたら個人の幸せ度は上がるかもしれない。

おとなしいロボットでいて自分を守るより、もっと野放図にやってなまの感情を味わうほうが、人生が豊かになるような気もする。同時に私のイタリア人同僚には、もう少し相手に配慮することも学習してほしいが……。

 

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Gerd AltmannによるPixabayからの画像 (Grazie!)

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トリリンガル・マム
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