数年前の秋、京都をひとり、ぶらりと旅したことがあった。ひょんなことから機にめぐまれ、二、三日、ひとりでお寺やお庭などをまわった。京都には何度も来ているが、いつもだれかといっしょ。それも楽しい思い出だが、ひとりでめぐるのは想像していた以上によかった。
まだコロナがおさまっておらず、人が少なかったのもラッキーだった。三十三間堂の仏像群、永観堂の見返り阿弥陀。圓光寺の水琴窟と石庭、雨に濡れる青もみじ、曼殊院門跡の滝の絵……。ひとりで心ゆくまで味わった。静謐な時間が心地よかった。
なかでも忘れられないのが奥嵯峨の祇王寺で見た光景だ。秋の透明な光のなか、見たことのないエキゾチックな蝶が二匹、薄紫色の花のあいだで恍惚と戯れているーー。その異様な妖しさに時を忘れ、しばし見入った。
祇王寺は竹林と青もみじに囲まれたつつましやかな草庵。瀬戸内寂聴の小説「女徳」のヒロインのモデルになった恋多き芸者、高岡智照が、後に出家して庵主となった寺として知られる。その美貌、そしてまだ十五にして惚れた男に貞節の証として小指を切り落として見せるという気性の激しさで、九本指の芸者としてその名を馳せた。その後数々の男性遍歴を重ねた智照が、色恋の煩悩はこれまでと出家し、ほぼ廃寺だった祇王寺を住処と定めたのは四十歳の時。それでも智照を女神と崇める和三郎という男がそばで彼女に仕えた——。
と、そこまでは昔小説で読んでいた。が、そのはるか以前にも、この寺に愛の煩悩に苦しんだ女たちが住んでいたことは知らなかった。平清盛の寵愛を受けていた白拍子、祇王だ。清盛の心変わりにより、都を追われ、母と、やはり清盛の愛妾であった妹とともに出家してこの寺に住んだ。祇王寺の名は、この悲恋の白拍子に由来する。
竹林に囲まれた祇王寺はひっそりと静かで、苔むす庭は緑が目にしみいるよう。が、人里離れたさびしい場所で、昔なら日が沈むとそれこそ物の怪が飛び交うような漆黒の闇に閉ざされただろう。それまで華やかな世界に生きてきた彼女らは、こんな寂寥につつまれて、どんな思いでその後の人生を送ったのだろう——。
そんなことを思いながら帰り道につこうとしたら、玄関脇に置かれた花のまわりをひらひらと舞う、あでやかな蝶が目に入ったのだった。
蝶は大ぶりで、黒と白と臙脂のあざやかな模様をしている。甘い香りを発する花のまわりを二匹、くっついたり離れたり、飽きもせずずっと戯れている。別世界に連れていかれそうな妖しさで、吸い込まれたように見入ってしまった。となりにいた金髪の若い外国人女性も、ずっと見入ったまま離れない。
しばらくして顔を上げ、ようやく、そばにあった案内板に気がついた。読んでみると、蝶はアサギマダラ、花はフジバカマだという。フジバカマは古典などで名前を聞いたことがあった。秋の七草のひとつだそうだ。
しかし、アサギマダラは知らなかった。読んでみてびっくり。なんと1000km以上も海を超えて渡ってくる「渡り蝶」なのだという。渡りの謎はまだよくわかっていないが、台湾や東南アジアといった場所から来ているらしい。この祇王寺には、フジバカマの花が好きなのか、毎年秋に来るそうだ。
祇王寺のような場所で出会ったせいか、蝶たちの戯れるさまは男女の愛の夢のように映った。
それを昨年、ある絵を見て思い出した。新国立美術館の「ルーブル美術館展 愛を描く」に出展されていた絵で、「ダンテとウェルギリウスの前に現れたフランチェスカ・デ・リミニとパオロ・マラテスタの亡霊」という、長いタイトルがついている。アリ・シェフェールというフランスのロマン派の画家の絵で、日本では初公開なのだそう。
男と女が悲しく目を閉じたまま、抱き合っている。男の胸と女の背中には、なにかで突き刺されたかのような傷がある。そのふたりを右上からダンテとウェルギリウスがきびしい顔で見ている、という図。許されない恋をした男女が地獄に落ち、地獄の風に吹かれながら永遠にさまようという、ダンテの「神曲ー地獄篇」に書かれた逸話を題に取った絵なのだそうだ。
ふたりは亡霊なのに、まるで生きているかのような若くみずみずしい肉体をしている。目は悲しく閉じられているが、女の両腕は男の首にしっかりと巻きつけられたままだ。
愛をテーマにしたこの美術展には、初恋を描いた愛らしい絵、情熱やエロスを描いた絵もあったのに、なぜかこの絵に魅せられた。そして、祇王寺で見た光景——アサギマダラたちが花々のあいだを飽きもせず、静かに恍惚と戯れつづける光景——が、抱き合ったまま地獄の風に吹かれている男女の姿に重なった。
1000㎞もの距離を渡ってくる不思議な蝶……家に帰って、ふと祇王寺のパンフレットを引っ張り出してみたが、アサギマダラに関する記載はなかった。かわりにこんな歌を見つけた。
——五十年の 夢とりどりの 落ち葉かな——
祇王寺庵主、高岡智照の歌である。幼くして親に身売りされ、早く死にたいと願っていた少女は、98年という長い人生を生きた。
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*カバー写真は展覧会にて筆者撮影