イタリアのことわざ

携帯マナー、日本とイタリア

 

先日、急を要する用件があり、やむを得ず、電車の中で携帯で話していると、隣の男に降りて話せと注意された。大声で話していたわけではないし、たかが十数秒のことだ。ムッとして言い返そうとしたが、その路線で近年、無差別殺人が起きたことを思い出し、こらえた。が、解せない。車内での通話はいったいいつから、まるで犯罪のように見なされるようになったのか。

うるさいからダメ、ということなのだろうか。であれば、車内のおしゃべりもいけないのか。赤ちゃんが泣いたら外に連れ出さねばならないのか——。それがマナーなのだとしたら、まるで恐怖政治の国のようだ。

その男は隣でふんぞりかえって携帯をいじりつづけている。フードで顔は見えないものの、他人の存在への嫌悪感、拒否感のようなものが、その全身から伝わってくる。

以前住んでいたイタリアでは、電車でも、バスでも、みんな携帯で声高らかに話していた。近年は携帯がスマホに変わり、通話はテキストメッセージに取ってかわられたかと思ったが、昨秋、久々にイタリアに行ったらそうでもなかった。

「あと10分で着くからパスタを茹で始めていいよ」、「子どものお迎え、今日はあなたが行ってくれる?」、「店員を探しているんだけど、だれかいい人知ってたら教えて」——そんな話がバスのあちこちで聞こえる。うるさいといえばうるさい。が、それらは生きていればどうしても発生する生活音としてとらえられているのか、注意する人はいない。

それは、イタリアの後に寄ったイギリスでも同じだった。イタリア人より声は抑えていたものの、電車内で仕事の話をしている人もいたし、バスで延々と恋バナをしている若い女性もいた。

それらの話し声を聞いていて、うるさいとは感じなかった。むしろ、人の体温を感じた。あっちにも、こっちにも、人の生活があるのだなと。

一方、日本は、他の県はよく知らないが、東京の電車は静かだ。ローマから遊びに来たイタリア人の友人などは、静かすぎる、と怖がっていた。わかる。東京の電車は静かだが緊張をはらんでいる。車内通話は人の迷惑になるから遠慮しましょう——単なるマナーがいつのまにか暗黙の掟になり、それを守らない人間は人ではない、というような空気を醸し出している。

ひとさまに迷惑をかけてはならない——われわれ日本人が小さいころから叩き込まれてきた道徳は、確かに社会に一定の秩序をもたらし、大勢の人間が狭い国土でも和して暮らしていけるような土台を作っている。しかし、一方で、人は人に迷惑をかけないでは生きていられない生き物でもある。迷惑をかけることを必要以上におそれると、生きていけない。

イタリアに次のようなことわざがある。

Vivi e lascia vivere.

生きなさい。そして他の人も生きさせてあげなさい。つまり、寛容でありなさいという意味だ。

冒頭でわたしは男のことを批判したが、あまり人のことは言えない。自分だって、他人の存在にイライラしたり、ウザいと思うことはある。東京のような過密な都市で肘付き合わせて生活していれば、時にそんな気分にもなる。しかし、それはおたがいさまだ。自分だけじゃない、他の人も生きているのだから…。

些細なことに目くじらを立てないよう、自分をいましめるとともに、冒頭の男には、もう少し心を広く持つとともに、マナーと規則を履き違えないでもらいたい。

 

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ABOUT ME
湊夏子
長いイタリア暮らしを経て、帰国。日英伊の3か国語でメシの種を稼ぎ、子どもを育てているシングルマム。
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