イギリスを旅行したとき、サンドイッチやらソーセージロールやらを歩きながら食べている人をよく見かけた。時間がないのか、にしても立ち止まるぐらいはできそうなものだが……。なぜなのか理由はわからない。
ヴェネツィアに住んでいたとき、夫と運河沿いを歩いていると、北欧のバックパッカーたちが橋の上の地べたにすわり込んでパンを食べていた。近くには犬の糞が落ちているが、別に気にも留めてない様子。それを見て夫は、「よくあの場所で食べられるなぁ。さすがバイキングの末裔はちがう」と、呆気にとられていた。
イタリアでもバールでは立ち飲みもするし、パニーニなどは立ったまま食べる。しかし、ふつうは歩きながら食べはしない。また、道端にすわって食べるのはありえない。せめて広場のベンチにすわる。
アングロサクソンや北欧の人たちとちがって、イタリア人は食べることに重きを置き、日々の簡素な食事でも、どうやって食べるか、どこで食べるかにこだわる。食べ物は味わうものという意識があるので、どんなに忙しくても、歩きながら食べるぐらいなら食べない。ちゃんとすわって食べられる状況がととのうまで待つ。
大地震で大きな被害を受けたラクイラのような被災地でも、真っ先に個別の簡易スペースが建てられ、プライバシーが確保されたスペースで、温かいパスタ、コーヒーが供されたと聞いている。食事を落ち着いて味わって食べるのは、基本のき、と考えられているのだ。
最近、それを痛感するようなことがあった。
昼休み、職場の部屋でお弁当を食べていたら、ドアをノックしてイタリア人の上司が入ってきた。なにか用事があったらしいが、わたしが食事中なのを目撃し、「失礼!」と、まるでまちがって裸でも見てしまったかのようにすまなそうにしている。
わたしが「かまいません」というのを押しとどめ、「じゃまして悪かった。ゆっくり食べて」と、音を立てないよう細心の注意をしてドアを閉め、静かに立ち去った。
彼が特別デリケートな心遣いができる人であることを差し引いても、その恐縮ぶりは半端なかった。イタリア人にとって食べるということは、そんなにも神聖なことなのか。眠っている人を起こしたりしないように、食べている人の邪魔をしてはいけないんだ——と、あらためて実感した。
また、別の日。ちょっと急ぎの仕事があって、昼休み、書類を広げながらおにぎりを食べていたら、イタリア人の同僚に、「食事というのはちゃんと清潔なテーブルクロスのかかったテーブルでするものだ」とたしなめられた。そんな、書類が散らばった机でメシを食うな。仕事するときは仕事、食べるときはちゃんと環境をととのえて、味わって食べなさいということだろう。まあ、できればわたしもそうしたかったのだけど……。
「Anche l’occhio vuole la sua parte」ということわざがある。見た目も大事、という意味だ。物事は機能的、効率的なだけでは十分ではない、うつくしくなければ、というイタリア人の価値観をあらわしている。それはイタリア人の物作りの根幹にあるのだろう。フェッラーリしかり、パネライしかり、機能と美が両立している。
それは食べることにおいても反映されている。
きちんとテーブルセッティングされた食卓、その上に供された料理の、まず見た目を愛でる。次にその味を味わい、家族や客人と会話して食卓を共にするひとときを楽しむ。この一連のことすべてが食べることで、単に空腹を満たすだけではないのだ。
とはいえ今日では、毎回そんな食事をできる人はイタリアにもいない。みんな仕事で忙しく、ひとり暮らしも増えたから、ひとりでご飯を食べる人も多いだろう。
それでも、たとえひとりで仕事の合間にパニーニを食べるにしても、その時間だけはできるだけ落ち着いて食べようとする。食べ物を味わおうとする。そこが、空腹を満たせればそれでかまわない、歩きながらでも、道端で食べるのも平気という北部ヨーロッパの人たちの、機能一辺倒なところとの大きなちがいのように思う。
そんなイタリアだから、食べることについては数多くのことわざや言い回しがある。たとえば、
「Pancia vuota non sente ragioni.
(空腹では頭が働かない)」
これなどは、日本の「腹が減っては戦はできぬ」と似ている。腹ごしらえが重要なことはどこも同じなようだ。
一方、日本にはないというか、いかにもイタリア的なものもある。なかでもおもしろいと思ったものを以下、ご紹介しよう。
「Mangia bene, caca forte e non avere paura di morire.
(よく食べ、力強く糞をしろ。そして死ぬことなんか恐れるな)」
強烈に直裁的な表現だが、人が生きることの本質を突いている。なんか元気が出てきませんか?
「Chi lavora mangia, chi non lavora mangia e beve.
(働くヤツは食べる。働かないヤツも食べて飲む)」
ナポリ発のことわざ。額に汗して働いた者がそれに見合った食事をするのは当然だが、働かないでなまけていた者もちゃっかり分け前にあずかり、酒まで飲んでいる——このことわざが伝えるところの教訓は、なんなのか。
それは、無駄にがんばるな、ということ。無駄な骨折りをしなくても、生存本能が必ず抜け道を見つけ、救ってくれると。ナポリ版「生きる力」とでも言いましょうか。正しい、正しくないを超えて生き抜くナポリ庶民のたくましさが読み取れる。
イタリア人はこのように、食べることに関してデリケートな神経、美学を持っているかと思うと、土臭い図々しさも併せ持っているようだ。
そんな彼らとつきあって、はや三十年。何万回もいっしょにごはんを食べてきたが、いまだに驚きが尽きない。
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Engin AkyurtによるPixabayからの画像 Thank you!