日々思うこと

物の気配

 

年末に実家で大掃除などしていて、寝室の押入れを少し片付けようかと母に訊いてみた。もう長年使っていない布団やリネン、カーテンなんかまである。始末したほうが使いやすいでしょと。

でも母は、ううん、いい、そのままにしておいて。見なくても何が入ってるかはわかってる。それらがそこにあるのを感じてる。共に生きてきた物たちの気配をこのまま感じていたいと。

そうだな。そうだよね。人生の最終章を生きている母にとっては、利便性などもうどうでもいいだろう。それより慣れ親しんだ物たちに囲まれているほうがいいに決まってる。いちいち手に取って見るのはもうしんどいが、そこはかとなく存在を感じるぐらいがちょうどいいということなのだろう。

 

物には記憶が詰まっている。そして、プルーストではないが、それを見た途端、匂いをかいだ途端、過去が鮮明によみがえる。

たとえば母が昔着ていたカーディガン。

まだ小学校に上がる前だったと思う。冬、近所の公園で遊んでいたら黒いカーディガンを着た母が迎えに来てくれた。そしてもう帰ろうと手をつないでくれた。それは温かい思い出のはずなのに、そのとき感じた夕暮れどきの寒さ、なんともいえないさみしさのほうが生々しく思い出されるのはなぜだろう。

また、愛らしい猫のアップリケのついた小さな座布団。母が幼いわたしのために手作りしてくれたものだ。

押入れの中にそれを見つけた途端、いっきに昭和四十年代にワープした。きびしかった祖父母、若かった両親のおもかげ、畳と障子の日本家屋の寒かったことや、使っていた石油ストーブの匂いまでもがありありとよみがえった。

なつかしく思うと同時にちょっと重くもあった。まだ母の年代には達していないのに……。心が現在から昔に飛ぶ、その距離に疲れるのか。それとも、過去の記憶を再度生きる、その追体験がしんどいのか。

 

そういえば最近、ヴェネツィアに住む親友が、わたしが預けっぱなしにしていた何十冊もの蔵書とともに、思い出の物を入れた小箱をはるばる持ってきてくれた。

かつての愛読書が手元に戻ってきたのはうれしい。なつかしい友に再会したようでときめきながらページをめくった。

一方、思い出の物を入れた箱は一度ふたを開けてみただけで、まだじっくりと見ていない。

娘のヘソの緒、赤ん坊のころにつけていた小さな金のブレスレット、リボン、幼い絵やつたない字で書かれた文章といった思い出の品々が、お菓子の空き箱に突っ込まれ、ふたにマジックで「思い出の物」と走り書きしてある。いつかちゃんと整理しようと思っていたのが、そのまま二十年近くも経ってしまった。

思い出の物たちが帰ってきたのはうれしい。とてもうれしい。なのにふたをしたまま手に取ってみようと思わないのはなぜなのか。

それはおそらく母と同じで、それらがそこにいるという気配、それだけで今のわたしにはもう十分なのだ。過去の時間は膨大で濃密だから、それらと逐一向き合っていたら疲れてしまう。うれしかったこと、悲しかったこと、いろんな時間があったなとおぼろげに感じられるだけでいい。

思えばたくさんの物を捨ててきた。捨てたくなくても捨てざるを得ない物も多かった。それらも記憶の海のなかでぼんやりと気配を放っている。

 

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UnsplashJoanna Kosinskaが撮影した写真, Thank you!

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トリリンガル・マム
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