わたしはだれ?ここはどこ?
記憶喪失にでも陥らないかぎり、おとなはふつう、そんなことばを発しない。そういう感覚、自分が今、ここに存在していることをふしぎに思う感覚は、ふだんは喚起されることがない。
しかし、外国など、いつもいる世界とは遠く離れた場所に身を置くと、そんなことも起こりうる。ことばもわからない、なじみのない風景のなかでは、アイデンティティーがぐらつく。
だれかが書いていた。貨幣と言語が変わるということは、価値観がくつがえされることだと。たしかに、貨幣と言葉はある価値を共有することで成り立っている。それが変われば、なにがよくて、なにがよくないのかは、あいまいになる。自分の輪郭はぼやけ、場合によっては崩壊するかもしれない。自分を定義しなおす必要が出てくる。
わたしはだれ?ここはどこ?
これ、ほんとうに自分だろうか。これ、ほんとうに自分の人生なのだろうか。
長年、異文化のはざまで生きてきたせいか、自分は時折、そういう感覚に見舞われてきた。高校のころ留学したアメリカで、二十代のある時期、何ヶ月か過ごしたフランスで。所帯と仕事を持ち、十何年暮らしたイタリアで。また、旅先の国々で…。
自分のことをだれも知らない外国では、現在の自分と、過去の自分をつなぐものが、なにもない。新しい環境で、新たな自分が形成されていくなかで、過去の自分は不確かになっていく。
また、使う言語が変わると、自分もちょっと変わる。仕事で英語を使っているときと、家族とイタリア語で会話しているときでは、たぶん、同じ自分ではない。意識してはいないが、自分のマインドセットは、その国のことばのそれに寄っていると思う。
そしてそれは、外国語に限らない。東京にいて標準語で話していても、大阪の親から電話が入れば、大阪弁に切り替わり、関西人になっている。
長いイタリア暮らしを経て、十数年前に帰国してからは、前よりひんぱんにその感覚に襲われるようになった。
わたしはだれ?ここはどこ?
通勤電車で揉まれる自分、スーパーで買い物をしている自分を、自分が見て、驚いている。わたしはなぜ、こんなところにいるのだろう。なぜ、こんなことをしているのかと。
何度も住む場所を変え、ひんぱんに言語を切り替えるうち、わたしの頭に変なバグが生じるようになったのか。
いや、しかし、それだけでもなさそうだ。というのも、この感覚に既視感があるのだ。それもまだ幼いころ、四つか五つのときの遠い記憶が…。
うだるように暑い、真夏の午後だった。実家の庭の井戸端で、わたしはひとり、水遊びに熱中していた。おとなたちは家のなかにいたのか、聞こえるのはセミの声だけ。ふっと遊びに飽き、まわりを見渡したとき、ふしぎな感覚に襲われた。
今、ここにいる子ども、水遊びをしている子どもが、自分だということがよくわからない。おとうさんとおかあさんはわたしのことを、「○○子」と呼ぶけれど、その○○子っていう子と、今、この井戸端で遊んでるわたしは、おんなじ子なのか。どこでどう、つながっているのか。目の前の庭は、どこなのか。
夏の午後の、時の止まったような静けさのなかで、ふしぎな感覚につつまれたのを覚えている。
この記憶がほんとうだとしたら、自分のアイデンティティーの希薄さは、生来のものなのかもしれない。外国に行かなくても、ずっと生まれ故郷にいたとしても、わたしはだれ?ここはどこ?と、感じていたのかもしれない。
あるいは、そんな所在なさを持って生まれたからこそ、住む場所を何度も変える人生になったのか。どっちが卵で、どっちがニワトリか、正直、よくわからない。
いずれにせよ、異文化のはざまに生きるのは、けっこうつらいことだ。あっちにも、こっちにも属さない辺境にいるようなもので、自分が何者か定まらない。
ひらきなおって、自分は自分だ、自分こそが自分の居場所だ、などと自分を鼓舞してみても、その自分は常にゆれており、頼りなく、あやうい。
わたしはだれ?ここはどこ?
それが訪れると、若いころは、自分がこわれてしまうのではないかと怖かった。
日本語から、英語へ。英語から、イタリア語へ。イタリア語から、大阪弁へ…。それぞれのことばが、それに言霊のようにくっついている土壌の匂いを連れてくる。これら異なる匂いの繚乱が、こちらの嗅覚を混乱させ、足元をぐらつかせる。
わたしはだれ?ここはどこ?
それは、流れ込んで来る異文化がこちらの受け入れ容量を超えたとき、われ知らず上げた悲鳴だったかもしれないし、現実に尻を敷かれ、あっぷあっぷしている自分が、無意識に作り上げた、現実逃避の技なのかもしれない。
幸いなことに、慣れか、年の功か、それにおびやかされる、というほどのことはもうなくなった。今では、あ、また来た、と、耳をそばだてる程度だ。
わたしはだれ?ここはどこ?
自分がつかめず戸惑い、居場所がわからず彷徨っていた自分が、おそれ、親しんだリフレイン。それも、そのうち、単なる年寄りのボケになって、フェイドアウトしていくのかもしれない。
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Ri ButovによるPixabayからの画像 Thank you!