本・作家

ネガティブ・ケイパビリティ、畏敬と共感と

 

ネガティブ・ケイパビリティという言葉を、最初どこで聞いたのだったろう? 負の力? うしろ向きな能力? 

なぜかわからないが、ネガティブという言葉に惹かれた。作家で精神科医でもある帚木蓬生が解説した本があることを知り、読んでみた。

 


ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 (朝日選書)

 

箒木によると、ネガティブ・ケイパビリティとは「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」のことだそうだ。「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」でもあるという。

速さと効率を重要視する昨今の潮流とは逆を行く考え方だ。が、だからこそ、今生きづらいと悩む人々から興味を持たれているのだろう。2017年に刊行以来、現在まで19版を重ねている。

 

思いもつかなかったが、ネガティブ・ケイパビリティという言葉は、英国のロマン主義の詩人、ジョン・キーツのものだそうだ。

1795年に生まれ、1821年に25歳という若さで夭逝した詩人は、困窮のなかで詩作に苦しんだ。手本としてシェイクスピアの「リア王」、「オセロ」、「マクベス」といった作品を熟読するうち、シェイクスピアが人間の深い情念、心の深淵を描けたのは、性急な到達を求めず、不確実さと懐疑とともに存在したからという考えに至る。それがネガティブ・ケイパビリティという概念に結実する。

そのキーツが1817年に書いた弟たちへの手紙に、ネガティブ・ケイパビリティとあったのを、なんと170年も経った後、英国の精神分析医、ビオンが奇跡的に見出す。彼がそれを発展させ、精神分析の治療に活用したことにより、ネガティブ・ケイパビリティは日の目を見、広く知られるようになった。

ビオンという人はずっと精神分析医だったわけでなく、最初は高校で文学と歴史を教えていたそうだ。子ども時代をインドで過ごし、第一次世界大戦に従軍もしたという。並ならぬ人生経験と広い教養を持っていたからこそ、専門分野にこだわらないものの見方ができたのだろう。

経験を積み、精神分析の大御所になったビオンは、若い分析家たちが学習と理論の応用ばかりにかまけ、目の前の患者との生身の対話がおろそかになっていることに危惧を感じる。患者を性急に精神分析の定説にあてはめるのではなく、その言葉や症状にもっと開いた心で対する力が必要だと。

で、彼は、「共感に向けて。不思議さの活用」という論文を書いた。「人はどのようにして他の人の内なる体験に接近し始められるだろうか」という問いを投げ、「共感を持った探索をするには、探求者が結論を棚上げする創造的な能力を持っていなければならない」と洞察、キーツのネガティブ・ケイパビリティに言及した。対象の本質に深く迫るには、せっかちに問題解決をする能力ではなく、そういうことをしない能力、不確かさのなかにとどまる能力が必要だと——。

 

帚木はこのビオンの論文を、精神科医になってまだ5、6年の、若き日に読んだのだそうだ。深く心打たれ、以来、ネガティブ・ケイパビリティを治療の、創作活動の杖としてきた。この力が腑に落ちる治療、創作活動を支えてくれているという。なぜか。

人生や社会はわかりやすい事象、処理しやすい事態ばかりではないから、と、帚木は説く。むしろどうにも変えられない、どうしようもない事柄のほうが多いのに、ネガティブ・ケイパビリティがないと表層だけの処理になり、問題の本質が取りこぼされてしまうと。ネガティブ・ケイパビリティという概念を知って以来、ふんばる力がついたと——。

なるほど……。それはそう、ほんとうにその通りだと思うけど、そうはいってもむずかしい。われわれはどうしても、早くて楽な解決法を求めてしまう。

帚木はそれを「わかりたがる脳」のせいだという。脳というものは答えを欲しがるようにできており、目の前にわからないもの、不可思議なものが放置されていると落ち着かず、困惑してしまうのだそうだ。とりあえずそれに意味付けをする、レッテルを貼ると、脳は落ち着く。

なるほどね。たしかにそうだ。手っ取り早く知りたい、解決したいという性質が脳にあるから、マニュアル本、ハウツー本が受ける。マニュアルというのは脳を嫌がらせず、人が考えずにすむためのものなのだな。

わたしも時折その手の本を手に取るが、心の底ではそんなハウツーで解決できるとは信じていない。いないが、考えるのはめんどくさいから、つい手にとってしまう。楽な道はないかと探してしまう。

コスパ、タイパなんてものの見方にも踊らされる。また、昨今はインターネットでなんでも調べられるから、調べればなんでもわかるといった錯覚に陥っている。なぜ自分が生きているのかもわかっていないのに……。

昔、科学技術がまだこんなに発展していなかった時代には、人は自然や世界にもっと畏怖を抱いていただろう。神秘に、謎に対する畏敬の念があっただろう。人間が優れた知能で数々の謎を解明してきたのはすばらしいことだが、同時にそれが人を傲慢にし、不幸にしている面もあるように思える——。

読みながらそんなことを考えて、ネガティブ・ケイパビリティとは、世界の深遠、人間という謎に対して畏敬の念を持ちつづける力かな? と思った。自分の狭い枠で安易に決めつけないこと。わからない相手、対象に対し、深い部分で耳を澄ませること……。それによって本質の崇高さに触れなさい、大事なものをつかみとりなさいということかなと。

そして、サン・デグジュペリの「星の王子さま」の一節を思い出した。「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは目に見えない」

 

帚木は教育にも言及し、現代の教育が、問題への素早い解決能力の養成に偏っていると警鐘を鳴らす。それではもっと複雑な実際の人生の困難に立ち向かえないと。

「崇高なもの、魂に触れるものというのは、ほとんど論理を超越した宙ぶらりんのところにある。むしろ人生の本質はそこにあるような気がします。問題設定が可能で、回答がすぐに出るような事柄は、人生のほんの一部でしょう。残りの大部分は、わけがわからないまま、興味や尊敬の念を抱いて、生涯かけて何かを摑みとるものです。それまでは耐え続けなければならないのです」

一見きびしく聞こえるものの、よく読むと心を落ち着かせてくれる言葉である。

なにも焦らなくていいのだ。人生は限りなく深く、焦ったところでどうにかなるものでもない。深遠すぎて、そんなアプローチをゆるさない。

それより、心を澄ませ、じっくりと向き合っていく——むずかしいが、そんな心がけを忘れないことだけが唯一の足がかりなのかもしれないと思った。

 

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