「ロボット・ドリームズ」を見てきた。日本では11月の初上映からもう4ヶ月もロングランをつづけている、大好評の話題の映画だ。
その表現力には大いに魅せられた。が、みんな感涙するそうなのに、自分は反対の感情しか持てなかった。どうして……?
いろいろ考えさせられる映画だったので、作品の紹介とともに感想を述べてみたい。
Robot Dreams (English Edition)
舞台は80年代のニューヨーク。大都会マンハッタンで孤独に暮らすドッグは、ある日、テレビ通販で友達ロボットなるものの存在を知り、購入する。
相棒を得てドッグの日々は輝き出す。セントラルパーク、エンパイアステートビルといったニューヨークの名所をふたりで巡る。カフェや公園、ビーチに繰り出すのもいつもいっしょ。が、喜びに満ちていた日々は、ある日、突然終わってしまう。ちょっとしたハプニングのせいでふたりは離れ離れになってしまう——
ドッグとロボットの出会いと別れを、全編セリフなし、ナレーションなしで、動きと表情、音楽だけで綴った。
アニメといっても子ども向けではない。詩的に、あざやかに描かれた大人の寓話といったおもむきの作品である。レビューなど読むとラストシーンに感涙したという声が多く挙げられている。
が、自分はむしろ違和感を感じた。どうしても主人公ドッグに感情移入できなかった。でもまあその話は後述することにして、まずは良かったと思う点を述べてみたい。
第一に、セリフなしであれだけ語れるってすごいと思った。瞳の動き、ストローの動きといった細かいディテールで気持ちや話の流れをさりげなく伝える。
一例をあげると、狭いアパートで夜ひとりさびしく過ごしているドッグが飲み物を飲もうとするシーン。ストローを口に運ぼうとすると、ストローがくるっと回って反対側に向いてしまう。あっち向いたストローの吸い口に目を移すと窓越しに向かい側の家が見え、カップルが仲良く楽しそうに過ごしているのが目に入る。
ストローにまでそっぽ向かれてしまうドッグのさびしさ、イケてなさがユーモラスに表現されていると同時に、友達が欲しくなる切実さが生々しく伝わってくる。
また、80年代のニューヨークの様子が細かく再現されている。のちに9.11で破壊されてしまったツインタワーがまだそびえ立っていて、ローラースケートで街を闊歩する人や、ラジカセで音楽をかけて踊っている人が。キース・ヘリングらしき絵が描かれているダウンタウンの壁画や、海辺の遊園地のコニーアイランドなど、あの時代のニューヨークをよく知っている人ならすごくなつかしく感じるのではないか。
自分はその時代に二、三度短く行っただけだけど、そんな短期の訪問者にもニューヨークのきらめきは十分伝わってきた。出会いとハプニングに満ちた心躍る都会。世界一エキサイティングな街——
この映画の監督のパブロ・ベルヘルはスペイン人だが、80年代に映画を学ぶためニューヨークに住んでいたそうだ。この映画はニューヨークへのオマージュだと述べているとおり、どのシーンからもニューヨークへの愛が伝わってくる。
また、登場人物が全員擬人化された動物というのが、ニューヨークの多様性を嫌味なく表現していてうまいと思った。動物にしたことで男女の性別や人種、民族といった具体性が除かれ、普遍的な話としてより幅広い層に訴える作品になったのではないか。たとえばドッグとロボットの関係は、友情ともとれるし、恋愛ともとれる。
そしてなにより、音楽。当時ヒットした音楽が全編通して効果的、印象的に使われ、ミュージカルといってもいいぐらい。なつかしのアース・ウィンド・アンド・ファイアーのあの曲、「セプテンバー」に乗ってドッグとロボットが踊るシーンでは、たまらず小声で口ずさんでしまった。隣の観客もノリノリでからだを揺らし、リズムを取っている。
にもかかわらず、あざやかなうつくしい作品にもかかわらず、自分は最後まで主人公のドッグに感情移入できなかった。みんなが感涙しているラストシーンにもしらけてしまった。なぜか——。
(この後、ネタバレあり)
前半はよかったのだが、ドッグとロボットに起きたちょっとしたトラブル——ロボットが突然ビーチで電池切れになり、動かなくなってしまう——へのドッグの対処に納得が行かなかった。
タイミング悪くシーズンが終わり、閉鎖されたビーチの立ち入り禁止エリアに取り残されてしまうロボット。ドッグはロボットを救出しに行くため、彼なりに手を尽くすのだが、うーん、やり方が手ぬるいしドンくさい。それでもさらにがんばると思っていたら、なんとわりとすんなりあきらめてしまった。
えっ? この程度であきらめる? なんでもっと手を尽くさない?
しかし、考えてみれば、ドッグはそもそもそういう人だったのだ。友達が欲しくて、でもできないからロボットを買う——そういう発想の人なわけだもの。
それでもロボットは忠実な友となってくれたのに、この程度であきらめる? かわいそうなロボットは打ち捨てられたまま、秋が来て、冬が来て雪が降ってもずっと、またドッグとふたりで楽しく過ごす夢を見つづけているというのに……。
その後、ふたりの道は別れる。ロボットはいろいろな災難に遭った後、ラスカルという人物に助けられ、ラスカルとの新しい生活が始まる。ドッグはドッグでダックというカッコいい人物と出会うのだが去られ、また新しいロボットを買う。
うーん、ドッグって人物、やっぱりなんか安易ではないか?
またさらに時がたち、ドッグと最初のロボットは偶然、再会する。ドッグは新しいロボットと親しげに歩いている。
わたしだったらドッグに会ったら殴り倒したと思うが、ロボットはあくまでけなげ。おとなにふるまい、夢を過去に送る。たぶんそれが感涙を誘うのだと推察するが、自分には理解不可能だった。そんなに恬淡といられるものか?
というわけで、最初はわくわくと見始めたものの、最後は頭に来て映画館を出たのであった。
しかし、あとになって考えてみると、これは寓話だから、ドッグはこういうキャラクター設定でなければならなかった。でなければ、お話がちがってきてしまうわけだ。
監督が描きたかったのはたぶん、たとえ理不尽な別れがあったとしても人生はつづいていき、人はまた別のやり方で、あるいは別の人と、ちゃんと再生していけるということなのだと思う。それを大半の人はきちんと感じ取っているから涙したのだろう。あきらめや分別は弱さではない、やさしさなんだと知っているんだ。
一方、死んでもロボットを取り戻しに行けとドッグに怒っている自分は……苦笑。
まあしかたない。わたしはどうしてもドッグに好感が持てない。しかし、できないことにしがみつかずに新しいロボットと歩み出す彼こそ、スマートで大人なのかもしれないとも思う。
それはさておき、セリフなしでテンポよく物語る映像と音楽の表現力、80年代のニューヨークのアニメによる細密な再現には圧倒された。
アパートにトーキング・ヘッズのレコードが置いてあったり、ドッグがスティーブン・キングの「ペット・セメタリー」を読んでいたり、公園の凧揚げの凧はゲイラカイト。80年代を彩ったアイコンがあちこちに散りばめられている。
また、チャップリン映画や「オズの魔法使い」をはじめ、過去の映画へのオマージュと思われる仕掛けやネタもいっぱい。そういうのを見つけるのも楽しい。
まだ上映しているので、よかったら観て、感想を聞かせてください。
〜終わり〜
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*アイキャッチ写真は映画のロボットではありません。イメージ写真です。
UnsplashのPhillip Glickmanが撮影した写真, Thank you!
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