先日、中国出身の女友だち、Hさんとおしゃべりしていて、ありがとうという言葉について考えさせられた。
Hさんは日本在住約四十年。文化大革命が終結した直後に北京の難関大学に入学、化学者として研究所に務めていたが、当時まだ閉鎖的だった中国を飛び出して来日。アルバイトや中国料理店の店長などを経て、日本企業で通訳、営業、バイヤーとして活躍してきた。ずいぶん前に日本に帰化し、日本語も日本人以上に巧みだ。
そんなHさんには二十代半ばの娘さんがいて、娘さんはHさんにちょっとしたことを頼むにも、毎回律儀にありがとうを付け加えるという。「親子なんだからそんなこといちいち言わなくてもいいのに」とHさんは苦笑する。
が、そう言えばうちの娘もそうだ。Hさんの娘さんと同い年だが、LINEでも電話でも最後にまめに「ありがとう」が付いている。若い世代は礼儀正しくなった、ということか。
いや、若い人に限らない。考えてみると、ありがとうの多用は社会全体で増えているように思う。
たとえば、図書館。図書館で本を借りるとき、サービスを受けるこちらが「ありがとうございます」というのは当然にしても、図書館の係の人も「ありがとうございます」と返す。日頃わたしはそれにちょっと違和感を感じていた。ここはちょっと会釈するぐらいで十分なのでは? 利用者はお客さまではないし、図書館は営利サービスではない。
また、マンションの管理人さん。こちらはゴミ出しやら清掃でいつもお世話になっているから、「いつもありがとうございます」と自然に口について出るが、管理人さんから「いえ、ありがとうございます」と返ってきたときはちょっと首をかしげた。
とはいえ、かくいうわたし自身、ありがとうを乱発している。本来、「どういたしまして」とか「お気になさらず」と言うべき場面でも、ありがとうと言ってしまっている。
ひとつひとつの場面に合わせて適切な言葉を選ぶのは頭を使うので、考えるのがめんどくさいという気持ちが働くのか。とりあえず「ありがとう」と言っておけばまちがいないというか、少なくとも敵認定されないであろうという保身の心理か。いずれにしても安易に発してしまっている。
苦笑いしながらそう告白すると、Hさんも笑ってうなずいた。そしてこんな言葉を教えてくれた。「大恩不言謝」
「大恩不言謝」とは中国のことわざで、大きな恩に対してはありがとうと言葉に出さない、黙って心に刻み、返せるときがきたら返す——そういう意味なんだそうだ。思わず唸った。なんてスケールの大きい、高貴な考え方だろう。
思い返せば昔は日本でもそんなに「ありがとう」を頻発しなかったように思う。もっと念や表情、行動で感謝の思いを伝え合っていたような気がする。言葉少ないことは齟齬も生んだが、その分、発される言葉には重みと深さがあった。でもそれは対面が主なコミュニケーションだった時代の話だ。
今はSNSやリモートなど、リアルに人に会わないコミュニケーションが増えた。実際に顔を見たり声を聞くことがない分、思いを言葉で補う必要が増えたのかもしれない。それはそれで言葉は必要な進化をしているのだろうし、ありがとうと言っておいてマイナスになることはない。
しかし、大きな恩の場合はそうはいかない。わたしにも大恩を負っている人が何人かいて、恩返しをしたいと思うのだがなかなかできない。それはわたし自身の行動や成長というかたちでしか返せないものだからだ。死ぬまでに返せることを願っているが、むずかしいことだから返せない可能性も高い。
今、社会はネット化し、だれでも気軽にチャットしたり発信できるようになった。リアルで会わない分、自分の考えや気持ちを言語化する能力はいまだかつてないほど重要視されている。ネットのやり取りでバッシングを受けたり責められたりしないよう、政治的正しさも考慮に入れた言葉の紡ぎ方を人は身につけていく。そんななか、ありがとうという言葉がよく使われるようになった。
でも、思う。ほんとうに大切なことは、やはりそう簡単には口にできないと。
★最後までありがとうございました。ブログランキングに参加しています。よかったら応援クリックしていただけるとうれしいです。
![]()
にほんブログ村
UnsplashのVlad Calinが撮影した写真, Thank you!
