イタリア北東部、ドロミーティ山脈の麓の渓谷にある小さな村、プリミエーロに住む親友のパオラが、村で開かれたセミナーについて知らせてくれた。
19世紀の新潟で日本初の西洋料理店「イタリア軒」を開いたイタリア人、ピエトロ・ミオーラについてのセミナーだった。ピエトロ・ミオーラはこのプリミエーロの出身なのだそうだ。
講師は立命館大学・食マネジメント学部長で元スローフードジャパン協会会長の石田雅芳氏。イタリアは今空前の日本ブームで、セミナーは満員で盛況だったという。
パオラは日本好きで何度も日本に足を運んでいる日本通なのだが、自分の住んでいる小さな村にそんな先駆者がいたとは、と、興奮していた。
そんな折、共通の友人である写真家、湊雅博氏の写真展が新潟市の文化施設、砂丘館で開かれることになった。パオラに案内を送ると、「グーグルマップで見てみたら砂丘館はイタリア軒のすぐ近く。徒歩11分だって。ふしぎ、こんなふうに人や物事がめぐり合わすなんて……」と感じ入っている。
そのときはたいして気にも留めなかったのだが、新潟に写真展を見に行き、ついでにイタリア軒にも寄ってみると、館内ロビーに羽織姿のミオーラの肖像写真が飾ってあった。パオラが送ってくれたセミナーのポスターと同じ写真だ。それを見てわたしも奇遇さを実感した。
パオラがついこないだ、遠く離れたドロミーティの渓谷の村で見たセピア色の肖像写真を、時を置かずわたしが新潟で見ている。そのきっかけは共通の友人である湊氏の写真展で、彼は前にイタリア軒に泊まったことがあるという……。
それであらためて、ピエトロ・ミオーラについて調べてみた。
1837年、プリミエーロ生まれ。子沢山の貧しい小作農の子として生まれ、イタリアの軍艦のまかない調理人として海を渡った。
横浜に着き、本来なら外人居留地から出られないのだが、ちょうどそのときやってきたフランスのサーカス団と知り合い、その一員となって1874年に新潟へ。新潟は当時開かれたばかりの活気のある港町だった。
が、大怪我をして動けなくなり、サーカス団から置いてけぼりにされる。そんな彼を哀れんだ当時の新潟知事から、牛鍋料理店を開くようにと二百円の軍資金を恵まれた。
ミオーラは健闘し、牛鍋屋を作り繁盛させたが、大火事で消失してしまう。が、幸い、まわりの人たち(ひとりは彼の妻になる)が力を貸してくれてまた建て直し、今度は西洋料理を供する店となる。こうして日本初の西洋料理店、イタリア軒が誕生する。
当時の在日イタリア大使館の書記官がイタリア軒について、「日本にマカロニとスプマンテの美味を紹介した」と旅日誌に書き残している。
ピエトロ・ミオーラは日本でひと財産を作り、最終的には単身で帰国した。望郷の念に駆られたのだろうか。最後はトリノで亡くなったそうだ。
人の一生というのはほんとうにわからない。なにがきっかけでどこでなにをやることになるやら。ドロミーティ渓谷のそんな山あいの小さな寒村から日本海の海辺の港町へ。文字通り怪我の功名で日本に西洋料理をもたらすことになった。
親友のパオラもそうだ。ミラノ育ちのエンジニアで橋梁を専門とし、橋を架けるために長年、世界中を回ったが、今はだんなさんの故郷であるプリミエーロの家にいることが多い。
そんなパオラとヴェネツィアで出会ったわたしは、今は東京にいて、何年かに一度訪ねてきてくれる彼女に日本の橋について教えられたりしている。
いろんな偶然に導かれ、ふしぎなシンクロニシティが起こり、今、ここにいる。
セピア色したピエトロ・ミオーラの肖像写真に、再度、見入った。



参考文献
*表紙画像はイタリアのセミナーのポスターです
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