本・作家

光る君へ——あさきゆめみし 

 

NHKの大河ドラマ「光る君へ」、見ています。テーマ音楽がうつくしい。まるで色とりどりの絹糸がからみ、ほどけ、空に放たれて輝くよう。毎回聞き惚れてしまう。

ドラマの影響で、また源氏物語を読んでみたくなった。が、現代語訳でもちょっとハードルが高い。ちょうど家に、娘の古文勉強用に以前買ったマンガ版、大和和紀の「あさきゆめみし」があったので手に取った。作者の視点は入っているだろうが、ほぼ原作に忠実だそうだ。

以前読んだときと同様、今回も夢中になって読んだ。それにしても、この年になって読むと、興味を惹かれるところが前とちがう。

若いときは色とりどりのラブストーリーに魅せられた。が、今回はあの時代の女性の生きづらさにため息が出た。生身の人間なのに、なんの主体性もゆるされない。

自分から行動することを禁じられ、御簾のなかに姿を隠し、かんたんに男に見られるような隙を与えてはならない。たとえば女三の宮は、ほかの男に姿を見られたというので、だらしないと、夫で後見人の光源氏に叱られている。

と同時に、まったく男が近づいてこないのも困るらしい。結婚して面倒を見てもらわないといけないからだ。

高貴な女性は姿を隠して身を守らなければならない。その一方で、良縁になりそうな男に言い寄られた場合は、男を受け入れるようまわりから強いられる。拒んでいるにもかかわらず、男に無理やり奪われてしまうこともある。にもかかわらず、世間からは拒み通さなかった女に落ち度があると見なされる。

そのうえ、男は何人も恋人がいてもなにも言われないのに、女は二夫にまみえず、なんて言われてしまう。男から一方的に言い寄られ、顔を見られたらだらしないと叱られ、黙っていたら冷たいとなじられ、いったいどうしろと?

不平等もいいところ。女なんてやってられない——。物語のなかでたくさんの女性たちが出家を望み、実際に出家してしまうのは、身の置き所がなくてのことだろう。調べてみると、その時代、出家とは別居や離婚と同義語で、男から自由になること、男女関係の面倒から解放されることを意味したそうだ。

それでもヒロインたちは、歌や文、琴やお香といったものに精一杯個性を表現し、命を花開かせようとする——。その姿に感動した。

 

また、どのヒロインをおもしろいと思うかとその理由も、若いころと今回では異なった。

二十代のころは、光源氏の寵愛を一身に集める紫の上の、そのうつくしさや性格の愛らしさ、かわいらしさに魅了された。こうでなければ男に愛されないの?と、ちょっと考えさせれた。

しかし今回は、その紫の上が嫉妬に苦しみ、自由を希求していたことに目が行った。彼女は夫である光源氏がよそに恋人をつくり、明石の上とのあいだに子をもうけても、恨み言ひとつ口にせず寄り添ってきた。そんな女性だからこそ、だれよりも愛されたわけだが、その関係は当の本人に多大な犠牲を強いた。

女が自由になるためには出家しかないと、紫の上は出家を願う。が、夫をひとりにさせるのはしのびなく、それもできない。紫の上は愛らしいだけの人ではなく、人を深く思いやることのできる献身の人だったのだ。そう、今回読んで思った。

でもなぁ。しんどい。源氏を甘やかし過ぎ。

それより今回は、朧月夜に好感を持った。

朧月夜は当時権勢を誇った右大臣の娘で、華やかな美貌と奔放な気性の持ち主。朱雀帝(光源氏の兄)の女御として入内する予定だったが、光源氏と知り合い、自由恋愛を楽しむ。それが原因で女御としての入内は取り消され、格落ちの内侍として入内するが、そのあでやかな魅力で朱雀帝の心をとらえ、寵姫になる。が、源氏とも切れない。

それがスキャンダルになり、源氏は須磨に島流しにされる。朧月夜も後ろ指をさされるが、外野のいうことなど気にせず、昂然としている。

源氏とのことを知りながら、なお自分を深く愛してくれる帝には誠実に尽くす。が、帝の出家後は、再び源氏との情熱に身を任せる。そんな自分をうつけだと自覚しながら……。そして、もう十分に生きたと思えるときがおとずれると、源氏には知らせずに出家してしまう。

高貴な生まれだったからゆるされたとはいえ、彼女の、まわりに忖度しない生き方、情熱への潔さ、その一方でそんな自分をさめた目で見る客観性、自分で選んで生きることの痛みを感じつつも流されない心など、現代的で、とても好感が持てた。

 

空蝉もよかった。

空蝉は身分の低い既婚女性。もともとは上流貴族の娘で入内するはずだったのが、両親が早く亡くなってしまい、寄る辺ない身になってしまう。身の危険が迫ったところを格下の受領、伊予の介に助けられ、それが縁で、親よりも年上の彼の後妻になる。

伊予の介の留守中、空蝉が身を寄せていた宿に、折しも方違えで立ち寄った光源氏は、彼女の噂を聞き、忍び込む。そして空蝉は踏み込まれてしまう。

美女ではないが、たしなみ深く、立ち居振る舞いが際立っている——そんな空蝉に、最初は興味本位だった光源氏も魅了され、熱心に口説いてくる。

田舎で地味に暮らす自分に、そんなことが起きるとは! 空蝉の心は揺れる。自分は恋なるものを知らない。自分も恋に、情熱に身を投じてみたい——。

しかし、彼女はそうしなかった。夫を恋していなくても、大切に思っていた。かつて身寄りのない自分を引き受けてくれた人、いまや人生の盛りを越した夫の、苦しむ顔を見たくなかった。それに、自分は源氏には釣り合わない。源氏のひとときの遊びの相手にはされたくない。

空蝉は心を殺し、源氏の口説きに取り合わない。しつこく迫ってくる源氏から、あの手この手で逃げ、最後はあの見事なシーン。源氏の訪れを察した彼女は、彼女自身の抜け殻のような、うつくしい薄衣一枚だけを残して逃げ切る——。

空蝉のやさしさと賢さ、意地と誇りが、うつくしく、せつなかった。

 

そして、今回もっとも興味深かったのが、女三ノ宮。というか、女三の宮と柏木の恋の話。以前読んだときはあまり気にかからなかったのに、今回は深く印象に残った。

女三の宮は朱雀帝の愛娘で、身分は最上だが未熟で鈍い少女。才気もたしなみもなく、夫となった光源氏をいたく失望させている。

にもかかわらず、女三の宮は、光源氏に強烈なしっぺ返しをくらわせるのだ。ほかの魅力的な女性たちにもできなかったことを、あまりできのよろしくない女三の宮がやってのける。どうやって? 彼女は柏木という貴公子の自爆的な恋に巻き込まれ、不義の子を生むのである。

この、女三の宮と柏木の話に、今回はとても心惹かれた。源氏物語前半の、さまざまな浮き沈みはあっても明るかった色調が、女三の宮と柏木の話から一気に暗く反転する。そして、宇治十帖へとつづいていく——。このストーリー展開が見事だと思った。

 

柏木は、光源氏の親友でライバルの頭中将の長男。血筋といい、容姿といい才気といい、当代で一二を争う貴公子である。優れた若者と、光源氏のおぼえもめでたい。なのに、女三の宮に一方的で妄執的な恋情を抱き、あっけなく自滅してしまう。

女三の宮にあらがえない魅力があるというのであれば、わからない話ではない。しかし、そうではないのだ。

前述のように、女三の宮は生気のない、人形のような女人。万事に無反応で、唯一の特徴といえば猫をかわいがっていることぐらい。そんな女三の宮に、柏木は一方的にのめりこむ。

柏木の女三の宮への妄執は、彼女が父帝の命で光源氏と結婚する前から始まっていた。柏木はだれよりも高貴な姫を妻にしたいと、女三の宮との結婚を望んでいたのだが、かなわなかった。父帝が未熟で危なげな愛娘のことを心配し、三十近くも年上で、当代一の天下人である光源氏ならよい後見人となってくれるであろうと、紫の君という愛妻がいるにもかかわらず、光源氏と結婚させてしまったからだ。

ふつうならこの時点であきらめるだろう。想い人は人妻、それも自分に目をかけてくれている光源氏の妻となったのだから……。なのに、柏木はあきらめない。それどころか、さらに思いをつのらせていく。

同じ禁忌の恋でも、光源氏の藤壺への思いはまだわかる。父の愛妻である藤壺に、源氏は幼いころからやさしく接してもらっていた。母に似た面差しの、そのうつくしさに見とれ、賢い人となりにも触れていた。成長した源氏が藤壺への思いにあらがえなかったのはよく理解できる。

一方、柏木は、女三の宮に会ったことも、文をかわしたこともないのだ。そんな見知らぬ相手に、まるで憑かれたように心を囚われていく。空想力がたくましい、ということか。

しかし、ある日、柏木は愛しい人の姿をかいま見ることになる。宮の愛猫が突然部屋から走り出した勢いで御簾が巻き上げられ、可憐な立ち姿が目に入ってしまったのだ。柏木はもう、思いを止めることができない。

歌を送ってみる。しかし、気の利いた返事は返ってこない。字も下手だ。宮は想像していたような人ではなかったのか……?ちょっと疑問に思うが、つのりにつのった思いはもう止められない。柏木は侍女に手引きさせ、女三の宮の寝所にしのびこむ——。

女三の宮は自分の身に起きてしまったことにただただ愕然とする。それは夫の光源氏に知られることとなり、ねちねちと責められて泣くが、心では納得していないようだ。

<わたくしのせいじゃない。あなただってわたくしのことなど、露ほども思っていらっしゃらないくせに……。もうわたくしを放っておいて

しかし、現実はそうも行かず、女三の宮は男の子を産む。薫と名付けられた不義の子は、源氏の子として育てられ、源氏物語の後編、「宇治十帖」の主人公となる。

一方、柏木は、そこまで思い詰めての恋だったにもかかわらず、光源氏の報復を恐れて心身を壊す。ここで、開き直るとか、別の道を探るとか、なにか方法がありそうなものなのに、弱ってあっけなく死んでしまう。自分の恋は、人生は、いったいなんだったのかと自問しつつ……

うーん、なんて結末だろう。考えてしまう。柏木と女三の宮のあいだに起きたことは、はたして恋と呼べるのだろうか。思い込み、妄想がもたらしたアクシデントではないのか。柏木という人が理解できなかった。が、ゆえに心に残った。

現代人であるわれわれは、相互理解ということを重んじる。恋愛においても、おたがいを知ること、知ろうと努力することなしには関係は成り立たない、そう、なんとなく刷り込まれている。

しかし、恋というものの本質は案外、柏木と女三の宮のあいだに起きたそれなのかもしれない。それは謎の啓示であって、当人たちにもよくわからない。

女三の宮に話を戻すと、彼女は出産後、すぐに出家する。出家は彼女が生まれて初めて強く示した願望だった。わずらわしいことはもうこりごり——。

光源氏のことを思っていつまでも出家に踏み切れない紫の上とちがって、女三の宮にためらいはなかった。彼女はある意味、ものの哀れを解さないことにより、源氏の犠牲にならずにすんだ。そして葵の上があれほど望んでいた自由を手に入れた。

一見、無性格に見える女三の宮だが、そんな彼女にも一本、かたくなな我がある。それはだれも崩すことができないのだ。

 

さて、朧月夜、空蝉、女三の宮……。今回、彼女らを特におもしろいと思ったということは、光源氏の強力な魅力に拮抗し、源氏をはねのけた女性に興味を持ったということかな?また何年後かに読み返したら、そのときはなにをおもしろいと思い、どの人物に惹かれるのだろう?

 

ドラマの「光る君へ」のなかで、主人公のまひろ(紫式部)は、「地味でつまらない女、恋などしたこともないのによくそんな物語が書けるな」と言われ、「経験がなくても書けるのですよ」と答えていた。そのセリフに、彼女の物語作者としての自負が感じられた。

そうなんだろうな。「嵐が丘」を書いたエミリー・ブロンテも、男性と知り合ったことさえないのに、人の心を打つ激しい恋の物語を書いた。

なんて果てしない想像力だろう。ストーリーテラーたちの、人間を見る目の、なんて深く鋭いこと……。

さて、今晩の「光る君へ」が楽しみだ。

 

 

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