映画

夜の外側 Esterno Notte

 

イタリア映画の巨匠、マルコ・ベロッキオの新作、「夜の外側」を見てきた。極左グループ「赤い旅団」による、イタリアの元首相、アルド・モーロの誘拐事件を扱った作品だ。前編・後編あわせて5時間40分という長さにもかかわらず、力強い緊迫感で息もつかせない。冒頭からラストシーンまでスクリーンに釘付けであった。

実は見る前はとっつきにくい映画のように思え、二の足を踏んでいた。イタリアの政治にくわしくないし、その前に見たベロッキオの映画があまりおもしろくなかったからだ。

しかし、映画の専門家の方からぜひ見るようにとすすめられ、行ってみたら大正解だった。

体制・権力というものが、その保持のためにひとり歩きしていってしまう不条理と怖さ。個人がそれと対決しなければならなくなったときの非力さと苦渋。それに巻き込まれる人たちの苦悩が描かれており、どんどん引き込まれていった。

イタリアに特別な関心がない人でも楽しめる映画だと思うので、少しばかりストーリーを紹介し、感想を述べてみたい。

 

<映画の時代背景について>

この作品の舞台となるのは、1978年。イタリアは当時、誘拐やテロリズムの横行する、社会的・政治的に混乱した時代で、「鉛の時代」と呼ばれていた。イタリア国内の社会主義勢力、新左翼運動の台頭と、それを阻止しようとするアメリカやイタリア政府など西側諸国の抗争があり、冷戦の一環として発生した。イタリア政府、軍関係者、極左テロリスト、極右テロリスト、ネオファシストたちが交戦していた。

アルド・モーロ元首相を誘拐する「赤い旅団」は、プロレタリアート革命をめざす極左テロ組織のひとつで、実業家やジャーナリスト、警察官、政治家等を矛先に、たびたび誘拐・殺人事件を起こし、脅威を与えていた。

たとえばフランスのサルコジ元大統領夫人でスーパーモデルのカルラ・ブルーニ(1967年生まれ)は、イタリア北部の富裕層の出身だが、両親は赤い旅団による誘拐を恐れ、一家でフランスに移住している。そんな不穏な、暗い時代だったらしい。

 

<監督について>

マルコ・ベロッキオは1939年生まれ。26歳で「ポケットの中の握り拳」でデビュー。以来、時代や社会の闇を切り取り、社会に刺激を与える作品を多く撮ってきた。2012年には「夜よ、こんにちは」という映画で、事件を起こした赤い旅団メンバーの視点から、アルド・モーロ誘拐暗殺事件について描いている。

本作「夜の外側」は、この事件をその外側——政府、法王、警察、家族など事件にかかわった人たち——の視点から描こうという試みだ。史実をもとに、ストーリーとして再構築された。映画は6編のエピソードからなっており、だれかが「羅生門方式」と評していたように、異なる人物の視点から事件が描かれる。

 

(*ここから先はネタバレします。知りたくない人は読まないでください)

<人物とストーリー>

●アルド・モーロ

生涯で首相を計5回も務めた。事件当時はキリスト教民主党の党首で、大統領の最有力候補とされていた、イタリア政界きっての最重要政治家——。パンフレッットでそう読んで、イタリアの政治家によくいる口八丁手八丁の人を想像していたら、まったくちがった。

党大会で演説するアルド・モーロは、しずかに落ち着いた口調で話す初老の男性だった。共産党と連立を組むという、前代未聞の提案をしているのだが、一度もあおるような口調にならない。ほかのメンバーが激して口から泡を飛ばして反論しても、ていねいに淡々と受け答える。政治家にはめずらしいタイプの人だと思ったら、弁護士出身で、政治家をしながらローマ大学法学部でずっと教鞭をとりつづけたのだそうだ。

実際、大学で教えているシーンが出てくるが、教室に乱入してきた無礼な若者たちにも声を上げず、淡々とさとし、政治信条の異なる共産党党首のベルリンゲル書記長と話すときも、終始おだやかである。

その静かな姿は家庭でも変わらず、国会から夜遅く帰宅しても、お手伝いさんや、就寝している奥さんをわずらわさず、ひとりで目玉焼きを作って食べる。寝る前にはガス栓を閉めたか点検し、孫の寝姿をやさしく確認する。

そんな彼を、赤い旅団がねらう。テロリストたちはモーロがどんな人間かなど考えもしない。彼らの目に、モーロはただ、体制の象徴としてあるのみだ。

 

●コッシーガ

モーロを父と慕う内務大臣。モーロ救出のために大規模な通信傍受センターを開設し、徹底捜索体制を作って奮闘する。しかし、どうも最終的には、アンドレオッティほか政府のメンバーに、なにがなんでもモーロを救うよう説得することはしなかったようだ。政局の風向きが変わっていくなか、保身しようとしたのだろうか。

映画では、彼の苦悩する姿、神経症的側面が強調されている(双極性障害があったそうだ)。しかし、現実にはその後首相もつとめ、生きていればモーロが選出されていたであろうイタリアのトップ、大統領にまで昇りつめている。よくわからないが、モーロを見捨て、アンドレオッティ側についたことが功を奏したのだろうか。

 

●アンドレオッティ

首相を7回も務めた、大変著名な政治家。マフィアと通じている、犯罪にも関与したという容疑が持たれている、ダークな人物である。

映画でも不気味に描かれている。特徴的な前かがみの背、めがね。本作ではほとんどセリフもなく、目立たないものの、その黒い影が常に見え隠れしている。

「あれだけ長いあいだ政治をやっていて、撃たれもしなければ狙われもしなかった。おかしいだろ」と、イタリアに住んでいたころ、だれかが言っていたのを思い出した。

アンドレオッティのことば、「権力はそれを持たないものを疲弊させる」は、イタリアではよく知られている。

 

●教皇パウロ6世

アルド・モーロと旧知の間柄で、モーロ救済のため奔走する。さすが「神の代理人」。教皇の呼びかけにあっというまに200億リラの身代金が集まる。にもかかわらず、そんな権威ある教皇でも、簡単にはアルド・モーロは救えない。法王もまた、カトリック教会という体制を代表する人間であり、個人の願いと、代表者としていかにあるべきかという問題に悩む。

 

●赤い旅団の女性テロリスト、アドリアーナ・ファランダ

小さな女の子の母親でカトリック信徒だが、プロレタリア革命を信じ、子どもを母親に預け、運動に身を投じる。

モーロ誘拐が成功したとき、歓喜に泣いたファランダ。しかし、旅団のやり方に戦略が欠けることにだんだん不信感をつのらせていく。

仲間で恋人の男が実は革命を信じておらず、支配者階級に暴力で目に物言わせればいいと考えていることを知ったときは、激憤する。しかし、もう引き返せない。ファランダの熱狂は、虚無感と絶望に変わってしまう。

 

●アルド・モーロの妻、エレオノーラ

感情に流されず慎重に、しかし的確に行動する賢い女性、エレオノーラを、マルゲリータ・ブイがみごとに演じていた。

モーロとの関係がなんとなくぎくしゃくしていることは、第一話で示唆されている。モーロが帰宅しても起きてもこないし、彼のことばにも適当にあいづちを打つだけだ。

しかし、夫が誘拐されるという一大事件が起きると、夫の救出のために奔走する。政府に掛け合い、法王に助けを求め、政府の真意を知ってからは独自にも動く。不安と怒りから軽率な発言をしそうになる娘をいさめ、家族を統率する。

決して騒いだりはしないが、言うべきことは言い、やるべきことはやる。夫婦は似るというが、その姿はやはり、どこかモーロに似ているようだ。

 

●再び、アルド・モーロ

若き神父を相手に胸のうちを明かすモーロ。政治家ではなく個人として、権力争いの人身御供とされてしまったことへの怒りとむなしさを、初めて激しくぶちあける。

アンドレオッティ首相はじめ政府によって、自分は気が狂ったことにされてしまった。しかし、生きたいと願うことの、なにが狂っているのかと。

遺書で、国葬はなし、個人として葬られたい旨が示される。にもかかわらず、国葬がおこなわれる。棺なしで……。そのちぐはぐな、辻褄合わせな結末に、個人と体制のめざすところはどこまでも食いちがうのだなと思った。

 

<感想>

さりげなく描かれる家族の姿が興味深かった。

アルド・モーロの奥さんも、コッシーガの奥さんも、夫たちが仕事を終え夜遅く帰宅しても寝たまま、起きもしない。以前は起きて、食事を作ってあげていたのかもしれないが、長年、ゴルフウィドウならぬ政治ウィドウをさせられるうち、うんざりしてしまったのだろうか。

モーロはそんな妻を起こすことなく、自分で目玉焼きを作り、深夜の暗いキッチンでひとり食べる。家族がいても、権力者でも、人は個々の孤独を生きるのだ。

一方で、朝のシーンはおだやかに描かれている。孫を学校に送り出したり、出かける準備をしたり、春ののどかな日差しに満ちた室内で、生活が普通にいとなまれている。

それはテロリストたちもおなじで、女性メンバーのファランダは、苦しい決意を胸に秘めながらも、小学校一年生ぐらいの娘の世話をあれこれと焼き、朝食を食べさせてやる。

誘拐実行の朝、メンバーたちが口にするビスケットとコーヒー。緊張をはらみながらも、普通のイタリアの朝食がそこにある。

また、復活祭の食卓。モーロ夫人のエレオノーラは家族のために復活祭の食卓をととのえ、孫のためにチョコレートの卵を用意する。一家の家長の生死がわからぬ不安な状況であっても、家庭は営まれなければならない——そんな、モーロ夫人の強さは胸を打つが、同時に彼女はちょっと前まで夫に腹を立て、放ったらかしにしてもいたのだ。

モーロにしても、夫人にしても、良き市民として、カトリック教徒として、家族を大事にし、家庭を守ろうとする。しかし、家族といっても異なる人間であり、いかに結びつけようとしても差異は埋められず、それぞれが生きている現実もおなじものではない。

家族と個人、孤独……体制側の人間にも、テロリスト側にもつきまとうこれらのテーマが、前編後編を通して、通奏低音のごとく心に響いた。

 

また、ドラマチックな音楽、緊迫した場面のなかにも、ときどき茶化すようなユーモアがあっておかしかった。

たとえば、モーロが誘拐された直後、政府や党の要員が、モーロ宅をたずね、エレオノーラ夫人を見舞うシーン。もっともらしく涙を流して「お悔やみ申し上げます」なんていう党員に、エレオノーラは「ちょっと!夫はまだ死んでませんよ」

また、前述の、モーロの国葬のシーン。モーロ個人が国葬を望まなかったのに、政府としては、それではかっこうがつかないと考えたのだろう。折衷案として、棺なしで国葬がおこなわれた。そうそうたる面々が華麗な教会に集まり、涙を流し、荘厳な葬式がおこなわれるが、その仰々しさがかえって茶番であることを強く印象付ける。

 

映画を見たあとでアルド・モーロ誘拐事件や赤い旅団についてもっとくわしく知りたいと思い、ネットで調べてみた。が、やはり簡単にわかるような話ではなかった。問題は複雑で、闇は深そうだ。だからこそ、ベロッキオ監督も二度も取り上げ、ほかの映画監督、作家、ジャーナリストたちの関心を引くのかもしれない。

それにしても、力強い映画だった。見ているこちらをぐいぐい引きつける力があった。結末は最初からわかっているのに、どうなるのだろうとドキドキしながら、スクリーンのほうに前のめりになって見ていた。

東京では渋谷のル・シネマでやっています。前編と後編にわかれており、日を分けて見ることもできます。よかったらぜひ。

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ABOUT ME
トリリンガル・マム
長いイタリア暮らしを経て、帰国。日英伊の3か国語でメシの種を稼ぎ、子どもを育てているシングルマム。
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