本・作家

春にして君を離れ アガサ・クリスティー

 

緑色の蛇がのたうつ。トカゲが穴から顔を出す。実はずっと知っていたのかもしれない、ほんとうのこと……

本作はミステリーの女王、アガサ・クリスティーによる心理サスペンス小説。実はこれが初クリスティーだったのだが、唸った。傑作! なにげない情景や表情が伏線となって徐々に心の深淵を覗かせ、驚くべき真実へと導く。そのストーリーテリングに痺れた。

もともとは別のペンネームで発表されていたという。ミステリーに制約されず、作家としての新境地を開拓したい意図があったそうだ。初刊は1944年だが、今読んでもちっとも古くさくないことからその意図は大成功だったと確信する。人が愛と信じておこなうさまざまなこと、それはほんとうに愛なのか……。クリスティーは透徹なまなざしで心の奥に入り込む。

以下、簡単にあらすじを紹介する。

1930年代後半、ロンドン近郊の小さな町。女主人公、ジョーンは理想的な家庭を築き上げたことに満足していた。三人の子どもたちはみな独立し、優しく勤勉な弁護士の夫、ロドニーとふたり、おだやかに暮らしていた。が、急病になった末娘を見舞ったバグダッドからイギリスに帰る途中、ばったり再会した女学校時代の友人との会話がきっかけで、これまでの夫婦の愛情、親子関係に疑問が芽生える。さらに列車が悪天候で止まり、砂漠の鉄道宿泊所で足止めを食らうことになり——。

だれもいない、なにもない砂漠にひとり幾日も足止めされるうち、意識の隅に緑の蛇やトカゲがあらわれるようになる。見て見ぬふりをしていた情景がよみがえり、聞こえぬふりをしてきた言葉が聞こえてくる。

農園をやりたいと情熱的に語っていた夫。おかあさまのお眼鏡にかなう友だちしかうちに連れてこれないと恨めしげだった末娘。道ならぬ恋をした長女にそんなのは一時の気の迷いだと決めつけたこと——。

そのほうが安全だから、世間体がいいから、そういうものだから——。自分は自分に都合のいいように誘導してしまったのではなかったか。特に夫、夫は弁護士などやりたくないといっていたのに……。

理想の家族と見えていたものが反転する。愛と信じていたものがエゴイズムだったことに気づき、慄然とする。帰ったら夫にゆるしを乞い、新しく生き直そうとするのだが……。

むずかしいテーマだ。相手への愛情とその心に踏み込むことはまったく別物だが、それは愛という名のもとにおいて往々にして垣根を超える。そして立場が弱かったり、控えめだったりするほうは、相手の正義の旗に負け、心の訴えを取り下げてしまう。特に親密な関係においては気づきもしないままそういうことが起きやすい。そして時に大切な人の生命力まで奪うこともある……。

しかし、文末で栗本薫が解説しているように、それは相手の人生に立ち入ろうとする側だけでなく、それをゆるしてしまう側の責任でもある。ジョーンの夫ロドニーには、妻の干渉を退ける自由も、妻のもとを去る自由もあったのだ。それができないのは怯懦のせいであり、それを受け入れてしまったあとは本人の責任だと栗本は指摘する。きびしいが真実、現実だと思う。

この小説にはジョーンとは反対の、特異な生き方をする人物も描かれていてあざやかな印象を残す。

ジョーンが砂漠のなかの鉄道宿泊所で再会した女学校時代の同級生、ブランチは、その昔、溌剌とした美少女で全校一の人気者だった。が、惚れやすいのが玉に瑕で転落し、裏ぶれて老けた顔はジョーンの目に人生の敗残者と映る。でもブランチにはそんな自分をおもしろがる客観性もあり、夫の失敗にも寛容だ。

ジョーン夫婦の共通の友人の妻のレスリー。公金横領で夫が逮捕という大変な苦難に立たされても、自然な態度で現実を受け入れ、二人の子どもを抱えて一家を支える。夫の収監を子どもたちにも正直に伝え、取りつくろうことをしない。労苦でボロボロだが静かな尊厳があり、ロドニーを惹きつける。

興味深いのが、ジョーンが「ずっと冷凍庫に入ってたの?」と訊かれるぐらい若々しい見た目を保っている一方、ブランチとレスリーの外見は損なわれていることだ。これは彼女たちがだれかに見せるための人生を生きなかった、ということなのだろうか。クリスティーが彼女たちを描く筆致が温かいことから、そうなのかなと思う。

旅の終わりの方ではロシア出身のコスモポリタンな公爵夫人、サーシャが登場する。才気煥発でだれにでも分け隔てなく、人懐こく振る舞い、それでいて達観している。旅で経験した出来事を語り、生まれ変わった気分でいるジョーンに、わたしたちはみな聖者ではないからと水を差す。さらに、もうじき戦争になるだろうと示唆する。

人が自分の人生を生きようとすることと、他者と対立することなく生きることは不可能なのか。聖者ではない我々にはなすすべはないのか……。

イギリスに帰ったジョーンがその後、夫とどうなったか、ぜひ読んでみてくださいね。

 

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トリリンガル・マム
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