ミポリンが亡くなった。ママ友たちとの忘年会でその話題になり、悲しいね、さびしいねと共に悼んだ。十代のころからテレビで見馴染んできた女優さんが、こんなに早く、あっけなく亡くなってしまったのはほんとうにさびしい。またひとつ、昭和が遠くなってしまった……。
ミポリンの早逝に思いを馳せていて、ふと、何年か前にバスで出会ったおばあさんのことを思い出した。
渋谷行きの車内で隣り合わせたその人は、かなりの高齢に見えた。が、ひとりで達者にバスに乗っておられる。
バスが発車してしばらくすると、突然、ねえ、わたしいくつだと思う?と話しかけられた。
八十五ぐらい?と答えると、いたずらっぽく「九十六歳」と顔をほころばせる。九十六? おどろき、感心していると、愉快そうに身の上話を始めた。
「昔は千葉で洋裁の仕事をしていたの。だから服なんかは今でも自分で作る。これも、そしてこれも作ったのよ」と、着ていたブラウスとスラックスを引っ張って見せてくれる。
「ずっと独身。前は妹と暮らしていたけど、妹が死んでからはひとり暮らし。でも慣れているからどうってことない」
感心してうなずきつつ、それにしても九十六歳というのはご立派ですねと言うと、
「そうね。この年になると兄妹から友だちからみんな死んでしまって、だれもいない。まあほんとうにだれもいないわね。テレビを見てもだれがだれかわからないし……ひとり、まったくのひとりよ」
でも、その口調に湿っぽいところは全然なくて、そんな状況をおもしろがっているようでさえあった。
おばあさんはそのあと、昔話をひとつふたつして、三軒茶屋に着いたらあわてて降りていった。
隣の空席を見て、ちょっと狐につままれたような気がした。おばあさんはたしかに年相応に見えた。顔は皺々で、目はすっかり小さくなり、かろうじてまぶたを持ち上げている感じ。手も枯れ木みたいだった。が、明るくサバサバとしていて、さびしそうな感じは全然しない。よろよろとだが自分で歩き、バスを降りていった。あんな九十六歳、いるだろうか?
わたしはバスに揺られながら、この地球上に知っている人がひとりもいなくなった状況を想像してみた。身寄りや友人、同世代の歌手や俳優も、だれももう生きていない。自分と世界をつないでいた共通の記憶を持つ人がだれもいない。それって、知らない惑星にひとり生きるようなものではないか——。
ふと、一億光年の孤独、という言葉が浮かんだ(谷川俊太郎さんも今年亡くなった。合掌)。
人は他者の存在により、その共通の記憶により自分自身を認識している部分が大きい。家族、友人、同級生、会社の同僚といった人たちの存在は、望む望まないにかかわらず、自分が何者なのか、なんらかの定義をしてくる。
世代も大きい。ミポリンのことを知っている人とは同じ時代を共有している、それで自分は昭和の人間なんだと確認できる。自分を知っている他者がだれもいなくなったら、自分の世代の俳優や有名人がだれもいなくなったら、自分がだれかわからなくなりそうだ。
そういえば、アメリカやイタリアに移り住んだときにそんな感覚におちいったことがあった。
新しい土地で出会う人たちはこっちのことをまったく知らない。彼らがわたしを認識するのは、日本からの留学生とか、だれだれさんちのお嫁さんとか、そんな一点だけ。まわりがそうだと自分自身に対する認識もゆらぐ。
中世からほとんど変わっていないヴェネツィアの町を、以前の自分を知らない人たちに囲まれて生きていると、過去の記憶もあやうくなる——あれっ?シャンプーのコマーシャルを作ったり、六本木で踊っていたのはほんとうにこの自分だろうか——? あのわたしと、今のわたしは、はて、同じ人間なのかと。
たとえ自国の住み慣れた場所にいても、長生きして自分のことを知ってる人がみんな死に絶えたら、わたしはだれ?ここはどこ?という感覚におちいりそうだ。
元来丈夫、両親もいまだ健在の自分なんかは、なんだかどうも長生きしそう。どうしよう、あのおばあさんみたいに、知り合いが死に絶えた世界で生きることになったら? 街並みは変わり、テレビに映る俳優も歌手もわからず、自分が生きてきた過去とのつながりを喚起させるものがすべてなくなってしまったら——?
考えたくない。からだはともかく、軟弱な心が耐えられそうにない。
こうして考えてみると、バスで会ったおばあさん、やはりただものではない。あの軽やかな、飄々とした話し方。バスを降りるときのくったくない笑顔。たったひとりで未曾有の超高齢の世界に生きていて、あんなふうにいられるなんて……。
人間じゃなくて、仙人だったのかな?
おばあさんが降りたあと、狐につままれたような感じがしたのを思い出した。
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UnsplashのBrian McGowanが撮影した写真, Thank you!