ショートストーリー

生き延びるための酒

 

寒い季節に北イタリアでよく飲まれる蒸留酒、グラッパをテーマにショートストーリーを書いてみました。写真はヴェネト州のバッサーノ・デル・グラッパ、グラッパの故郷です。

 

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「生き延びるための酒」

 

こんな店に連れてきてどういうつもりだろう……?

いつもは安い居酒屋しか行かないのに、今日来た店は、高級店とはいえないにせよ、それなりにちゃんとしたイタリア料理店だ。テーブル越しにメニューを見ているステファノの表情を、真喜子は探るように盗み見た。

真喜子とステファノはつきあって三年になる。真喜子が勤めている大学にステファノが任期付研究員としてやってきて知り合った。イタリア人だが、日本に足掛け七年もいるので日本語は堪能だ。日本文学、なかでも小泉八雲が専門で、『心』の新伊訳に挑戦している。任期は一度は更新されたが、来年はどうなるか。もうじき三十に手が届くがなかなか正規の職につけない。

イタリア人なのに、陽気でもなく、人なつこくもなく、食べるものにもこだわらない——本ばかり読んでいるステファノのどこに惹かれたのか、真喜子は自分でもよくわからない。ステファノにしたって、こんなミーハーでがさつな自分のどこがいいのか。

なにが自分たちを引きつけたのか、謎であるが、気がついたら三年の月日が経っていた。

 

びしっとアイロンのかかったテーブルクロス。目にやわらかな照明。銀髪のマスターのおだやかな接客——。ちゃんとした料理店で、ちゃんとしたイタリア料理をいっしょに食べるのは初めてだ。

いつにない晴れがましさに真喜子の心は弾んだ。実を言えば前からこういう店でデートしてみたかった。とはいえ、ステファノの懐具合をおもんばかり、安い居酒屋に誘ってきたのは真喜子のほうだったが……。

前菜から順々に運ばれてくる料理はどれもおいしく、ワインの酔いも心地よく、ふたりはすっかりリラックスして他愛ない話に笑い合った。

デザートも食べ終え、ワインがひと瓶空いたころ、マスターがグラスをふたつ運んできた。ショートグラスに透明な酒が入っている。

「食後にグラッパはいかがですか?」
「グラッパ?」
きょとんと聞き返した真喜子に、
「今夜は冷えますからね。グラッパは温まります。こちらは店のサービスです」
テーブルにそっとふたつのグラスが置かれた。

「飲んだことないけど、食後酒なんてお洒落だね」
真喜子ははしゃいでステファノに笑顔を向けた。が、んっ? 同意の笑顔があるはずのその顔からは、先程までの楽しそうな表情が消えている。

「どうしたの? グラッパ、きらいなの?」
ステファノはなにか思わしげにグラッパのグラスを見つめている。真喜子の声も耳に入らないようだ。真喜子はいぶかしみ、「ねえ、なんなの? どうしたのよ?」

なにか考えている様子でそれにも答えない。真喜子は不安になり、「ねえ、ステファノ。ねえってば!」

そのただならぬ声音にステファノはようやく我に帰り、真喜子に向き合った。
「——あのさ、グラッパっていうのはこんな洒落たレストランで飲むような酒じゃないんだ」
「——え?」
「グラッパって、ワインを作った後の絞り粕で作った酒なんだ。ワインは貴族とか金持ちのもので、ぶどうの果汁を使って作る。それを作った百姓たちには絞り粕しか残らなかった」
「……ふうん……」
「でも食い物がない。だから絞り粕まで利用した。グラッパっていうのはもともと、貧乏人がカロリーを得たり、暖を取ったり、生き延びるために生まれた泥臭い酒なんだ」

「……う、うん……」
真喜子はうなずきながらも怪訝な面持ちだ。ステファノがなぜ今こんなことを言い出したのか、なぜ表情が曇ったのか。グラッパの由来なんかよりそちらのほうが気になる。

「でも、それで? なんで急に不機嫌になっちゃったの?」
「不機嫌? いや、ちがう。不機嫌なんかじゃない。ちがうんだ……」
ステファノはため息をひとつつくと、ためらいがちに目を伏せ、
「ぼくはその、グラッパの産地の出身なんだ。今日、ぼくはきみに結婚を申し込むつもりだった——」
「け、けっこん?」
ステファノの口から突然放たれた結婚という言葉に、真喜子は目を見張った。
「うん。ようやく任期付きが取れて、助教として正式採用されたんだよ」
「ステファノ!」

「でもグラッパが出てきて、自分の貧しい出自を思い出した。長いこと日本に暮らして故郷のことは忘れていたのに、急にありありと思い出したんだ。ぼくは苦学して研究者になった。ぼくの一族で大学を出た人間なんていないんだよ。恵まれた家庭に育ったきみとぼくでは育ちがちがう。きみをしあわせにできるだろうかって、突然不安になったんだ……」

真喜子はあらためてステファノの顔に見入った。目を伏せたまま口を閉ざし、神経質そうにまばたきをしている。まったく、この人ときたら——。

話題はというといつも研究のことで、身の上のことはほぼ話したことがない。常に抑制が効いていて、めったに感情をあらわにすることのなかった男が、今わたしにプロポーズし、不安にふるえている……。

ほろっとして抱きしめてあげたい気持ちと、なんて弱腰なのとなじりたい気持ち。そして結婚という言葉の危険で魅力的な響き——矛盾する感情のうねりが一度に押し寄せ、真喜子は叫びそうになった。あわてて口元をおさえ、目をつぶる。そしてまた目を開けると、そこにグラッパがあった。

グラスを乱暴につかみ、いっきに飲み干す。強いアルコールにむせそうになる。喉から臓腑まで火の玉が通り抜け、真喜子は苦しそうにううっと唸るとステファノを睨み、怒鳴った。
「あなたも先祖を見習いなさいよ」

呆気にとられるステファノ。それを尻目に、今度はステファノのグラスに手を伸ばし、またしてもいっきに空ける。

からだのなかが熱い。芯から熱を発してるよう。なんだか頭まで熱くなってきた……。酔ったのだろうか? 真喜子はろれつが怪しくなるのを感じながら、

「先祖は残り物で生き延びた。そのおかげで今日のあなたがあるのよね? ならあなたも弱音吐いてないでがんばりなさいよ。身もふたもなくがんばって、わたしをしあわせにしてよ!」

頰を紅潮させ、据わった目でステファノを睨んでいる真喜子。ステファノはそんな真喜子を唖然と見ていたが、やがてその顔に、畏れるような、いつくしむような微笑みがゆっくりと広がった。

「真喜子……。ごめん。いや、ありがとう……」

ステファノはテーブル越しに真喜子の顔に手を伸ばし、その頬にやさしく触れた。頰を愛撫され、真喜子は泣き笑いのような顔になる。べそをかく寸前のように下唇を突き出しているが、その口元は今にもほころびそうだ。

ステファノはそんな真喜子をいとしそうに見つめ、顔を引き寄せた。ふたりの視線が合い、見つめ合う。唇が重なる——。

 

ひと息ついてステファノは片手を上げ、快哉を上げるかのように叫んだ。
「マスター、グラッパをもうふたつ!」

 

〜 終わり 〜

 

 UnsplashLudovico Beeが撮影した写真, Thank you!

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トリリンガル・マム
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