本・作家

「空色心経」 こうの史代

 

読書家の友人に勧められ、こうの史代さんの新作コミック「空色心経」を読んだ。なんと、あの般若心経を題材にした物語だ。

どんな話だろう……? わくわくしながら手に取ると、カバーはきれいな空色。春の日のようなおだやかな空に花びらが静かに舞い、観音様らしき人物が長い髪を風にたなびかせ、たおやかにほほえんでいる。

「大丈夫、心はやがてのどかな海にたどり着くから」

本の帯のフレーズが目に入って、ちょっと泣きそうになった。そうなんだ。大丈夫なんだね?

 

この作者の本を読むのはこれで三冊目である。一冊目は映画化もされ、話題になった「この世界の片隅に」。

これは昨年、別の友だちに勧められて読み、ただただすごいと感嘆した。第二次世界大戦前後、広島から呉に嫁いだ主人公すずとその家族の日々を描いた話なのだが、ちびた鉛筆、海苔の養殖場、煮炊きや薪で風呂を沸かすといったつましやかな日々の綿密な描写に、人々の幸せ、かなしみ、はかなさが宿っている。

そして終盤、そのささやかな生活が戦争と原爆によって損なわれる、その痛みが、ページから滲み出る。壊されても生きているという喜び、意地のような誇りも……。

友だちは長い海外出張中にたまたまこの本を読み、「不覚にも涙が出た」そうだ。わかる気がした。彼もわたしもこの世界のちっぽけな片隅で、泣いたり笑ったりして生きている。こうの史代はそのなんでもない片隅にきらめく光をすくいとって見せてくれる。

 

12年ぶりの長編という本作、「空色心経」でも、描かれるのは普通の人のささやかな日々だ。

主人公の女性、あいは、京都北部の地方都市に夫と住み、スーパーで働いている。朝起きたらスーパーに仕事に行き、帰ってきたらテレビを見ながら弁当を食べるといった、なんの変哲もない暮らし。

しかし、一見普通に見えるのになにかおかしいことに読んでいるうち気づく。

あいも、スーパーで働く同僚たちも、みんなマスクをしている。あいはしょっちゅう「シュコシュコ」とアルコール消毒をしている。そう、これはコロナ期の話なのだ。

夫婦のささやかな平和の日々をコロナ禍が翻弄する。あいは現実を受け止められない。そのあいの日々と平行して、般若心経の世界が語られる。

知らなかったが、般若心経とは、観音様がお釈迦様の意をその弟子、舎利子に説法するという形式を取っているそうだ。本作でもそういうかたちで語られる。

主人公あいの心の奥に潜伏した静かな悲しみ。シュコシュコと繰り返されるアルコール消毒スプレーの不気味な音。閉じられたドア、お弁当がふたつの謎——

般若心経がプリントされたハンカチと、笹の葉で作った笹舟が、キーとなるモチーフとして印象的に使われている。

般若心経のハンカチは、夫が、「あいはどうでもいいことをぐるぐる考えるのが好きだから」と揶揄しながらお土産にくれたものだ。

笹舟にはあいと夫が結婚する前、つきあい始めたころのエピソードがある。

なにもかも偶然のようでいて、必然だったのかもしれない……。

黒で描かれる主人公あいの現実世界と、青で描かれる般若心経の世界。

「案外近いんかもな」

電車の窓から外を見て、あいがつぶやく。日本海、若狭海岸沿いを行く電車の窓の外には、のどかな海が広がっている。

 

 


空色心経

 

 


この世界の片隅に コミック (上)(中)(下)セット

 

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トリリンガル・マム
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