早いもので、もう年の暮れ……。一年のなかでもっとも夜が長い時期だ。
仕事を終え、帰路につくころには、日はもうすっかり落ちている。夜の帳が下りた住宅街を歩くとき、目はいつも家々の窓に吸い寄せられる。
闇のなかにあかあかと輝く窓、窓、窓――。それぞれの窓のなかに、それぞれの日々の営みがあるんだなぁ。
よその家の窓を見上げるとき、なんとなくみんなえらく見える。生活をどっしりと築き、人生の渡り方を心得ている人たちが住んでいるように思われる。それは自分の寄る辺ない心が投影する幻であって、実際は静かに家庭崩壊が進んでいたりするのかもしれないが……。
窓から洩れる光にどうしようもなく心惹かれ、なかを見てみたいと思う。時に、生垣に顔を近づけて目を凝らしたり、背伸びしたりしてみるのだが、たいていは植木やカーテン、ブラインドなどでよく見えない。
が、一軒だけ、室内が見える家がある。緑が繁る庭の奥にいつもオレンジ色のランプがともっていて、あたたかそうで、気になっていつもその家の前を通ってしまう。ランプは低い位置に置かれていて、どうも寝室のようなのだが人影を見たことはない。どなたか病いに臥せってらっしゃる方がいるのか、単に暗くなると明かりがつく設定にしてあるのか……。どんな暮らしがあるんだろう? 思いを馳せながら通り過ぎる。
話は飛ぶが、夜の窓といえば、アムステルダムがおもしろかった。なぜかカーテンもブライドもしていない家がほとんどで、なかが丸見えなのだ。夜、運河沿いの通りを歩くと、家族で夕食を食べていたり、テレビを見ていたりするのが見える。丸裸でソファにすわって読書している中年の男性なんかもいた。あれはなんだったんだろう? ヌーディストかなんか、だったのだろうか?
それにしても信じられないほど開放的だ。いったいなぜ? ふしぎに思って、いっしょに散歩していたアムステルダム在住の友人にたずねると、
「どうも、なんにも隠すことはない、という姿勢の表明らしいのね。自分にはなにもやましいことはないと。プロテスタントの国だからかしら?」
そうなんだ……おもしろい。
滞在中は熱心に歩いて家々のなかを鑑賞させてもらった。昼間もいいが、夜は照明で照らされた室内が闇のなかに浮かび上がり、まるで舞台のようで印象深かった。
一方、長年住んだヴェネツィアでは、窓は通常、ブラインドや鎧戸で閉ざされていた。
昼間はまぶしすぎる太陽から守るため、夜は寒さ暑さから守るため。ヴェネツィアはイタリアでは北に位置するが、アムステルダムから比べると南国だ。日差しの量と室内温度を調節するため、窓には鎧戸、ガラス窓、ブラインド、薄手の白いカーテン、どっしりしたカーテンと、外と室内の間にいくつもの仕切りがあった。
気温、天候の差異も大きいが、プロテスタントとカトリックの考え方のちがいもあるのかもしれない。オープンなイメージのあるイタリア人なのに、室内を外に隠さないのはオランダ人のほうなのが興味深い。
さて、自分が住んでいる東京の住宅街に話を戻すと、室内をあけっぴろげに見せている家などまずない。だからアムステルダムみたいには楽しめない。つまらない。
それでも日が落ちると窓々に次々と明かりがともる。その様子はちょっと星に似ている。煌々と輝く一等星もあれば、暗赤色のも、暗くてほとんど見えないのもあれば、いくつか並んで星座のように見えるものも……。
こんな都会でもまれに夜空がとても澄んでいて、手を伸ばせば星に届きそうに見えることがある。が、もちろん届かない。それと同様に、他者の窓もすぐそこにあっても手は届かない。無数にある窓の向こうを知ることは、まずない。
歩いていて、夜の窓を見上げるとき、自分と他者のあいだの超えられない距離を思う。人に運命づけられた孤独、だからこそ人を必死で恋い慕う気持ち……。
おなかも空いてきて、晩ごはんの心配をしなければいけないのに、目はいつも夜の窓に吸い寄せられてしまう――。
~終わり~
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UnsplashのKevin Fitzgeraldが撮影した写真, Thank you!